映画からノベライズされた本を読まないわけではないが、圧倒的に原作小説と映画という関係の方が好きだ。
あくまでも好みの話ではあるが。映画化されるときのたくさんの人間によって手を加えられて映像としてイメージを確立させるという行為が好きなのだと思う。映画というものは、人が思っているよりもたくさんの裏方の仕事によって作られている。
さらに言えば、脚色の仕方は監督によって個性が出てくる。最近ではドラマ版の『十角館の殺人』を見たがこちらはとにかく原作小説をそのまま映像に落としこもうとした力作だった。
同じくドラマから、中国で制作された『三体』とNetflixで制作された『三体』を比較すると話数もさることながらNetflix版は舞台がそもそもロンドンに変わっているというものがある。
この前キービジュアルが公開された某映画はそもそも原作小説とタイトルから異なっておりどのように宣伝するかも気になるところである。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の話。
今回は、脚色について考えることがあった。
哀れなるものたち
映画、監督はヨルゴス・ランティモス。小説、作者はアラスター・グレイ。
そもそも原作小説を知っている人間からすると、この映画での脚色はかなりヘンテコだった。主人公が「嘘」としゃべった世界をわざとそのまま残した上で、主人公の成長と変化と、エンディングに至ってはヨルゴス・ランティモス節とも言えるようなヘンテコなエンディングになった。
原作者であるグレイは2019年に亡くなられているので、この映画のプロジェクトのことを了承していたかどうかはよく分からないけれど。それにしても強気な描き方をしているなあと思った。
原作小説がある映画というのは扱いが難しい。映画で新たに加えられたオリジナル要素と原作小説要素と、原作小説から変更された要素があるので、感想をまとめる時の「人に見られることを前提とした話」にする時に躊躇うことがある。中々踏み込めない領域のようなものがある気がする。
脚色のあり方については置いて、この実写化での変化球がいたって普通に盛り上がるのに、なぜか漫画やアニメの実写化においては炎上しやすいことが不思議でたまらない。
原作に忠実であれ、という願いと。脚色での面白さ。それらふたつの要素がちぐはぐになって語っている人をよく見かける。
どちらかにしろ、とは言わないけれど何とかその「怒り」をしずめてはくれまいか。映画はいろんな力が働いて作られているので。