もう「手が震える」としか言いようのなく、手が震えている。意識のある間は常に震えている。
「手が震えていますよ」と指摘されたとき、私は「あ、そうですか?」と、とっさにとぼけるときもある。とぼけていないときは、自分の手が震えていないと思い込んでいた、というか、自分の手が震えていることなんてまったく忘れていたときだ。とぼけていないときの条件説明をしている前の文章は、文章の書き方としてとぼけているときのほうを説明するのが読みやすいはずだが、これは手の震えによるものではない。でも、遠因ではあるかもしれない。私のことを説明している私の手は震えていないとは言えない。
私が自分の手が震えていることを書くことについて、砂でできた体が歩きながら崩れていくように感じる。砂人形が果たして、その理由にたどり着くのか、幼児時代のトラウマが刻まれた秘密の石板の謎を解き明かすのか、生来の脳奇形を映し出すレントゲン画像の生データをダークウェブから掘り出すのか、差し込んでいる光を信じて歩き出すものの、地面に踏み込んだ足はぐずぐずと崩れていき、砂人形の体は倒れてしまう。この砂人形の比喩は適切だろうかと私は読み返して思う。というか、書いている途中ですでに思っていた。比喩自体は適切だと感じる。しかし、砂人形とは何だろう。砂浜の浜辺の、波に濡れた砂を固めたようなものというイメージなのだが、多分、その実態はない。おそらく、砂人形のイメージの源泉は、ACのCMだ。海を見ている親子のシルエットが崩れていく映像だ。地球温暖化の「ストップ」がメッセージだったはずだ。
私は自分の手の震えについての文章を書くにあたって、自然と注意深くなる。なぜなら、手の震えが強くなる条件は以下の通りだからだ。
一定以上のストレスにさらされること
より強いストレスが今後与えられることが予想されること
そして、自分の手が震えていることを自覚すること
条件の1と2は、ストレスマネージメントの問題だ。マネージメントは、脳から体にリラックスの信号を送ることだ。大の字に寝転がって、体の各関節にある、壁の電気スイッチのようなものを、体の中心から近い順にパチンと切っていく。そういうイメージをする。各指の第一関節のスイッチまで切ったとき、意識せずにうめき声が出てくれば完了だ。
条件3。これに対応するのが難しい。「あれ、そうですかね」とか、または開き直って「私って手が震えちゃうタイプなんですよね。ここまで震えちゃうときもあるんですよ(わざと手を洗った後に水気を払うように手を動かす)いや、困りますね」などと言うときもある。気がそれる。そこまではいい。指摘してきた相手と別れた後、手の震えの振幅が大きくなっているのがわかる。手の周りにちょっとしたそよかぜが起こっている。そよかぜは言いすぎたが、電車なら隣の席の人が気づくかも知れない程度に震える。
これを恐れていたんだ。手が震えているという事実を文章にすることによって、手の震えを自覚して条件3を成り立たせてしまい、手の震えが増幅するのが恐ろしかった。手が震えるのは、不快だ。字もうまく書けなくなるし、何より悲しい気持ちになってくる。しかし、現状の私は…それほど手が震えていない。というか、全く震えておらず、キーボードを叩くのにも不自由がない。
どうしてか、と思ったら、これはあれだ。酒を飲んで気持ちよくなっているからだ。条件を追加する。
ただし、酒を飲んでいるときは手の震えが止まる
難しく考えすぎていたかも知れない。簡単に解決できることだった。