実在するゲーム実況者グループをモチーフとした二次創作に端を発する言及がTwitterで散見されていた。概ねその火元の話は拡散し、ニコニコ文化圏の悪いところ、所謂ゼロ年代の2ch文化と同じく、均質な「おまいら」を前提としたコミュニティのホモソーシャル性が、女性ユーザーが女性であることを伏せて、「おまいら」と認められなければならなかった(当然それが苦痛なユーザーもいた)という話が、私のおすすめ欄に流れてきていた。
もちろん、今考えれば『くそみそテクニック』から始まる『やらないか』も、ガチムチパンツレスリング、淫夢ネタもローゼン麻生も、手放しに楽しめるコンテンツではないだろう。私自身もまた、ローゼン麻生、石橋ゲル的なオタクに親和性の高い政治家の言説を楽しんでいたし、コスプレダンパに参加していた頃は『やらないか』を踊ってもいた。その面白さを享受している立場だった、と言い換えても良い。
前々からそのような主に女性ユーザーへの弾劾的な振る舞いを含んだホモソーシャルがあることについて、私は今判断を下すなら悪であることを理解する一方で、その締め出しを下敷きにしたコンテンツやムーブメントが楽しんでいた/面白がられていたことや、バズっていたこと自体を否定すべきではない、と直観的に言及していた。
この私の振る舞いは、いじめっ子がいじめを肯定する、というのと同様の構図と取られても仕方がない。私もこのような悪の擁護を展開するロジックとして、「いじめが楽しい事自体は否定できない」を持ち出していた。片手落ちの論理で、何故このような居直りを明言するのか、私の中で正当性を確保している直観はあれども、真正面から説明できていなかったように思う。
今回、フォロワーから上記のような振る舞いについて諌められた。確かに、日の目を避けていた女性ユーザー当事者に対して不十分な形で「そういうことが面白かった」と言及し、その上で考えていることについて開陳しなかったことは、客観的に露悪的な行為だった。
一方で、この件に限らず、ホモソーシャル性へ否定的な言説が発生するとき、ホモソーシャルに含まれそうな属性を持つ人が、自明的にホモソーシャルに含まれているように言及され、かつ、その解消方法ではなく、十字架を背負うことだけを要求されるという構造は、私にとって好ましくない。
好ましくない理由の一つは、そもそも言及している彼が本当に悪辣なホモソーシャルに染まった人間かどうかの判別がなく、悪だと当然視されるという、キャラクターの押し付け(ステレオタイプの強制、記号化の暴力)が発生しているからである。これは、よくジェンダー/フェミニズム論の古典的な語りとしてある、女性らしさの(意識的/無意識的あるいは個人的/集団的を問わない)押し付けと、同質な圧力だろう。
そのうえで、誰かによって彼が悪である、と決まった瞬間に、過去の(未熟だった、無邪気だった、残酷だった彼の)「楽しさ/面白さ」が、否定、打ち消される。ただ「悪いこと『なので』実は楽しく/面白くないんだよ」とプリミティブな感覚を否定されることを、改めて「悪いことだったな」と受け入れ直すことは簡単ではないからだ。
誰かの権利を、主体性を奪っていることをベースにしたコンテンツが「楽しかった」し、なんなら文化の発展に「一役買った」とまで思っているかもしれないひとがいるとき、彼の過去を否定して罪人の烙印を押すことが、いつでも正しいことなのか、疑問を抱くことが(違う正しさを提示することよりも)先行していた。
烙印を押すことが目的化されると、人々は自らが被害者であるというロジック、すなわち、自らが弱者であるというロジックを用いて、弱者故に勝てるという構造を持ち出して「弱者無敵理論」が展開され始める。こういった無敵化は、どちらがより弱いかという水掛け論に陥るため、基本的に発展的な議論を阻害する。これに対していわゆる反転可能性テストと言われる、立場を逆転したらどうか、という言葉遊びも好まない。そもそも無敵を決めるゲーム自体が無益だからである。
無益なゲームに巻き込まれず、またゲームをしようという敵愾心を燃やさずに、人々が逃避や反発を即時に選びにくい、持続可能な反省の構造について考えると、「楽し/面白かった『けど』悪いことだった、愚かなことだった」という、時間的な変化を組み入れた、遡行的な形による訂正(これは近年の東浩紀の仕事から言語化している)がひとつの方法として提示できる。
遡行的な訂正が許されないと、楽しんでいた当人の中で反省は達成されない。「反省の達成=更生」のロールがないのは不健全/不完全じゃないのか。十字架を背負わせること、罪を自覚させることは必要なことだろう。罪に対して罰が発生することもあるだろう。しかし、持続可能な選択肢は単純な過去の修正(否定、抹消)ではない。
遡行的な訂正、反省、更生が重要と語ることは、例えば掛け算の順序問題に正当性を与えるような、論理的な帰結を否定するのでは、という指摘もあるだろう。ただ、考えの過程がわかる答案だからこそ、我々は100点・0点ではない点数を与え、点数を上げるにはどうすればいいか、と述べることが可能になるのも事実である。
東浩紀の『訂正可能性の哲学』自体を十全に読め込めていないので訂正の概念が、同氏の『動物化するポストモダン』におけるデータベース消費のような、マジックワードになってしまう危険性もある。
しかし、順行(遡行の対義語)を徹底すると、因果や相関という時間的な関係性が、時間的な変化を踏まえない対応、すなわち序盤に述べたキャラクター化・記号化を齎してしまう。それは、過去とは違う対象に向けたステレオタイプの応用に過ぎないのではないか。弱者が勝つという構造と、十字架の背負わせしかない罰の与え方の組み合わせは、対象を切り替えながら継続するデスマーチである。
過去の過ちに付随している面白さ/楽しさを、否定するのでも、単純な美化をするのでもなく、“じつは“正当化し得ない愚かしさ“だった“という訂正で、反省あるいは更生に繋げることが重要だと考える。これが、本当に持続可能な、広がりのある選択肢なのかはわからない。過去の感覚を肯定しつつ、その土台が非倫理的だったという手順は、敵対を未然に防ぎうるだろう。
人間は天衣無縫も無謬ともなれない、ツギハギだらけであることを積極的に肯定することは居直りでもある。しかし、ツギハギがあることで、むしろ強度を増してきたのかもしれない、と想像することはできるはずである。時間的拡がりに加えて、他者からの視点を組み込んだ上で、ツギハギ、いくつもの訂正を刻んで生きていくしかないのだ。