キリンとトマト。どうも、神山です。先日、シラスチャンネル:松下哲也のアート講釈日本地 にて放送された、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』回の為に、事前に公開しようとしていたスタァライト評論でしたが、元となる文章(劇場版感想→おたより)があったものの、舞台#1からまとめることが難しく、結果として終わってからの下書き版、不完全版の公開となってしまいました(これを元にして批評を再生産していかないと)。
少女☆歌劇レヴュースタァライトとはなんだったのか(案)
『少女☆歌劇レヴュースタァライト』とは
少女☆歌劇レヴュースタァライトとは、2017年4月、ミュージカルとアニメが相互にリンクし合い展開していく新感覚ライブエンターテインメントと銘打って発表されたプロジェクトの総称である。一般的な2.5次元ミュージカルはアニメ版の声優とは異なる舞台俳優によって演じられるが、本作は基本的にミュージカルもアニメも同一キャストで演じられる。アイドルマスターやラブライブ!、古くはデ・ジ・キャラットや魔法先生ネギま!といった作品も声優がキャラクターとして歌うコンテンツとして既存であるものの、キャラソンやライブアイドルではなく2.5次元ミュージカルの構造としては異なると言えるだろう。2017年9月に舞台第1作が公開され、2018年7月からTVアニメが放送開始した。ミュージカルとアニメの時系列はそれぞれ完全には重なり合っておらず、並べると次のようになる(スピンオフ舞台、オンライン舞台、総集編は割愛)。
舞台第1作:少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE- #1
TVアニメ版:少女☆歌劇 レヴュースタァライト
舞台第2作:-The LIVE- #2 Transition
舞台第3作:#3 Growth
劇場版アニメ:劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
それぞれの物語は、以下のような時間を取り扱っている。
舞台第1作~TVアニメ版~第2作:高校2年生の1年間
舞台第3作:進級、101期生の登場(スピンオフなどに連なる)
劇場版アニメ:高校3年生が終わる、99期生卒業。
COVID‑19拡大により、映画館や劇場の運営状況が変わってしまったことなどから、実際の順序は劇場版の方が舞台第3作よりも先に公開されてしまう状況になってしまったものの、基本的に物語の展開順にコンテンツが公開される予定が立てられており、ミュージカルとアニメとが地続きのものであることを前提として作られている。但し、ただ発表するメディアをスライドさせて二重化を図っているわけではない。アニメにはアニメの、ミュージカルにはミュージカルの設定があり、舞台装置があり、演出があることから、それぞれの手法によって同一ではないが同じ世界の物語が展開していく。後述するが、この物語には作中時間のループやバトルロイヤルが仕掛けとして導入されている。
女学園的な舞台設定であるという設定は、女性アイドルコンテンツ『アイドルマスター』『AKB48』『ラブライブ!』などの延長線上にあり、地下闘技場でのバトルロイヤルや、戦いがループ構造をもっているという設定は『仮面ライダー龍騎』『ひぐらしのなく頃に』『魔法少女まどかマギカ』などの延長線上にある。キャラクター同士の巨大な感情のぶつかり合いが、日常的なシーンだけと戦闘シーンの両方でなされるという点では、『HiGH&LOW』や『東京卍リベンジャーズ』とも共通点をもつ。
そういった構造の上で、「少女歌劇☆レヴュースタァライト」は聖翔音楽学園 第99期 俳優育成科所属の、通称・九九組と呼ばれる9人の女子学生のうちの一人、愛城華恋(演・小山百代)が主人公の物語である。
舞台第1作、TVアニメ版、舞台第2作について-愛城華恋、奮闘す-
舞台第1作とTVアニメ版は、九九組においてモチベーションが高く見えず、他の面々と比較してスキルも伴っていないように見える愛城が、かつての親友・神楽ひかり(演・三森すずこ)の転入によってモチベーションに火が点き、第100回聖翔祭で『いっしょにスタァライトする』という神楽との約束を叶える為、九九組のトップに昇っていくという物語である。
本作における競争は、宝塚のような演劇学校において、各人の演技力や歌唱力の競争によって主役の座を奪い合うというものとして描かれない。地下劇場と呼ばれる空間で、剣や弓や斧といった武器を扱い、舞台装置を駆動させ、相手の上掛けを落とせば勝利という”レヴューオーディション”という戦いで、力量を比べ合っているのだ。何故か舞台少女はバトルロイヤルの参加者なのである。
舞台第1作では、そういった争いの構造と、主人公である愛城華恋の舞台少女としての覚醒までが描かれ、それより先の物語としてTVアニメ版が存在している。TVアニメ版では実はあるキャラクターが世界をループさせ、第99回聖翔祭を何度も繰り返していたことが明らかになる。尚、この設定は舞台第1作の時点で設定として演者に伝えられていた(要出典)。ループを打破すること=第100回聖翔祭へのルートを開くこと、主席や次席といった強大なライバルに打ち勝つこと=ダブル主演たりうる実力を得ること、そして神楽が突如消失してしまうという関門を突破すること=一緒じゃないと叶えられないこと、などといった困難に対峙した愛城は『いっしょにスタァライトする』為にすべてを乗り越える。そして、第100回聖翔祭で神楽とともにダブル主演となり、TVアニメ版は最終回を迎える。
舞台第2作は、第100回聖翔祭が終わり、いちど『いっしょにスタァライトする』を叶えた愛城や神楽は、他の九九組メンバーと熱量が変わってしまったのでは、という空気の中、他校が乗り込んできて九九組のメンバーを引き抜こうとするという物語。九九組のメンバーのうち何人かの、高校入学前の同級生の登場などもあり、九九組のなかでだけの物語では終わらないことが示される(これは、スマホゲーム『少女☆歌劇レヴュースタァライト Re:LIVE』にて複数の学校における舞台少女が登場することにも言える)。そういった外側からの圧力にも負けず、『わたしたちみんなのスタァライト』は一回じゃ終わらない、と愛城や神楽、そして他の九九組、最終的には他校とも連帯し、舞台少女としての邁進を誓う物語である。
(この章のまとめが必要!)
劇場版アニメについて-九九組、卒業-
舞台第3作と劇場版アニメはともにメインキャラクターたちの卒業をテーマに扱った。それぞれにおいて卒業の扱いは異なっており、舞台版においては、個々人の活動は後輩へ継承されていくこと=「舞台」は終わらないことを描き、劇場版アニメにおいては、これまで自分を縛り付けていた拘りや固定観念から解放され舞台に立てること=「舞台少女」は終わらないことを描いた。
(舞台第3作については内容を深掘りできておらず、またスピンオフ舞台との関連性などもあることから、今回は割愛)
劇場版アニメでは、高校3年生に進級し、最上級生として新入生育成に携わる傍ら、九九組はそれぞれ卒業後の進路について、進学や劇団所属を選択するというところから物語は始まる。進路希望提出以前の物語が舞台第3作、提出以後の物語が劇場版アニメである。九九組は実習の劇団見学へ向かう途中”レヴューオーディション”ではなく”ワイルドスクリーンバロック”と呼ばれるステージ、新たな戦いに巻き込まれる。一方で愛城華恋は悲願であった”スタァライト”の上演を終えており、将来の目標がなくなってしまっていた。
これらにおいて、愛城が主人公と言っているものの、九九組の他のメンバーについても、物語中で行動や心境に変化があり、それぞれの視点に立った『少女☆歌劇レヴュースタァライト』の見方が存在する。すなわち、九九組の誰もが主人公格だとも言えるだろう。本作品は全体を通してずっと、九九組の物語と愛城華恋の物語を並列している。そのうえで劇場版アニメは”ワイルドスクリーンバロック”と、愛城華恋の幼少期、神楽ひかりとの出会いから聖翔音楽学園への入学までの前日譚がストーリーラインの二本柱である。
九九組の9人の縁は、彼女たちの舞台人生のなかでたった3年間しかない、かけがえのない学園生活での関係性であり、”レヴューオーディション”は限られた時間・空間で最もキラめくトップスタァは誰なのかを決めるステージである。その3年間が終わった今、誰が一番優秀なのか、正しいのか、完成なのかといった階級の構造は崩れ、それぞれが別々に巣立った先で舞台人として生きていくことになる。”ワイルドスクリーンバロック”での勝敗はケジメであって優劣ではない。勝つことで選べること、負けることで選べることがある。九九組でなくなる9人が道を分かつ為の通過儀礼としても存在していた。
(愛城について述べる)
キャラクターたちが卒業し進路を決めてしまった今、観客である我々は九九組に対して、どのように考えていくべきだろうか。振り返れば、主席はどんなに強大に描かれていても、欲深き人間だった。主人公は奇跡の力をもつ存在ではなく、ただ努力研鑽した人間だった。もちろんエリート校のトップ学生の話ではあるものの、一方でただの女子学生たちの物語でもあった。言い換えれば、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』はアイドルやループやバトルロイヤルといった作品の要素を含みながら、複雑な物語を構築しているようでいて、実は恩田陸の『夜のピクニック』や『六番目の小夜子』のような青春物語であり、高校生という戻れない「いま、ここ」にいるからこそ立ち現れるキラめき、そこでの競争と表彰は、武器を手にした戦いに依らずともよかった。
監督やプロジェクトの手によってそういった表現が選ばれている一方、物語内部で展開される論理には観客=視聴者の欲望が組み込まれているとされる。それによって、TVアニメの終盤、観客がキャラクターたちの関係性をより強く、より激しく求めたことによって、表現が変異する、という描かれ方をした。観客が存在するからこそ、壮大で残酷で破壊的に見えるステージ、”レヴューオーディション”や”ワイルドスクリーンバロック”が顕現する、と受けとれるような構造となっている。そのプロジェクトの論理に乗るのであれば、痛々しい表現の対象として九九組が、舞台少女が選ばれたことの一端には観客の責任がある。
観客、即ち舞台創造科としての責任について考えたい。(継続)
あいであめも(次回予告?)
そうであるならば、他作品からの影響、考察や解題によって物語に燃料を与え、戦いのステージに彼女たちを引き戻すことそれ自体にも責任が生じる。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』において視聴者、すなわち観客は「舞台創造科」と呼ばれる。舞台は一人で作るものじゃない、とTVアニメにて愛城は神楽に伝えた。しかし、劇場版アニメは、一人であっても、どこであっても、舞台少女は舞台少女なのだ、と。舞台創造科は責任をとれるのか。舞台少女だけが舞台人なのか。B組はA組と卒業するのに、我々は何を舞台少女に求めるのか。燃料は何かを求めていいのか。キリンやトマトにならないための批評の倫理。演者のファンとして切替えて次の舞台へもついてゆくこと、など。三つの道。舞台版にのっとり、これから出てくる舞台少女を照らす存在となる道。アニメ版にのっとり、一緒に卒業するという道。キリンにのっとり、資本として関連コンテンツに心血を注ぐ道。
愛城華恋は、神楽ひかりは、露崎まひるは、花柳香子は、石動双葉は、星見純那は、大場ななは、西條クロディーヌは、天堂真矢は、次の舞台へ。
では、舞台創造科はどこへゆくのか。(そして卒論へ!)