ネタバレ注意!小説『チーム・オルタナティブの冒険』の核心に触れています!
宇野常寛の小説『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社、2023年)は、とある地方都市の高校生たちの日常をベースとした、ジュブナイルミステリでありSFとしてジャンル分けされる小説だろう。物語は、男子高校生である主人公と親しかった女教師の葬式で幕が開き、中盤では、親友が失踪してしまう。何故、女教師が死んだのか、親友が失踪してしまったのか。不穏な事件とともに、高校生たちが過ごす夏休みは始まる。主人公は不気味な視線と苦痛に時折苛まれながらも、中学のときから仲のよかった友人たちとの高校生活や、「ピント外れの中年国語教師、ちょっと大人びた同級生、嘘がつけない快活なお兄さん」という謎の3人組や数人の女の子を含めた夏休みの合宿での一幕、ちょっとした恋の予感と花火大会があって……、という、ド直球の青春小説である、はずだった。
終盤で女教師の死も、親友の失踪も、人為的なものではなかったことが明かされる。じつは、二人の死は「未確認怪生命体人型甲種」通称『怪人』による連続殺人だったのだ。主人公を苛んでいた謎の苦しみの原因も、怪人たちによる攻撃だったのである。重要なのは怪人たちの特徴だ。人型で金属のようなビニールのような皮膚をもち、大きな両目はつり上がっていて、左右の腕を十字に組んで光線を放つ怪人。明らかに「ウルトラマン」がモチーフである。
それだけではない。「ピント外れの中年国語教師、ちょっと大人びた同級生、嘘がつけない快活なお兄さん」は彼らは怪人と戦う「虫の眼」をもった秘密結社―チーム・オルタナティブ―だったのだ。彼らが、巨大な風車のようなバックルがついたベルトを装着し「これは想像力の必要な仕事だ。目に見えぬものたちを、かたちにすることだ」と唱えると、詠唱に呼応しバックルが発光する。「変身!!」の言葉で彼らは姿を変える。大きな複眼と触覚を持つマスクと、オートバイ用のライダースーツのようなものに覆われ、手足には虫の外骨格のような装甲をもつ異形に。初変身の直後、次のような一文が挿入される。
変身装置〈オルタナティブ・トランスレーター〉が発動することで、虫の眼の持ち主はもう一つの身体=オルタナティブに変身する。装置を運用するチーム・オルタナティブは怪人たちの排除を目的とする有志の秘密結社である。チーム・オルタナティブは人間の自由のため、怪人たちと戦うのだ。
『チーム・オルタナティブの冒険』16章より
これは、明らかに「仮面ライダー」である。引用部も仮面ライダーのナレーション「仮面ライダー・本郷猛は改造人間である。 彼を改造したショッカーは世界制覇を企む悪の秘密結社である。 仮面ライダーは人間の自由の為にショッカーと戦うのだ!」のアレンジであろう。本作は、郊外の地方都市における青春小説の裏に、仮面ライダー(オルタナティブ)VSウルトラマン(怪人)という戦いを描いている。しかも、戦闘描写も設定も、シン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーと真っ向勝負できる、少年の夢のような作品なのだ。
何故、宇野常寛はこのような物語を書いたのか。本作は宇野の批評や評論活動のなかで提示してきた理論や、モチーフをあからさまに用いて、この小説は書かれている。たとえば、舞台はある県のある地方都市とされているが「ヤキトリ弁当」や「産業道路」の存在は、宇野が男子校で中高生時代を過ごした函館と重なる。主人公たちが通う高校は県立の進学校である「南高」であり、同じ市にある地元の国公立大学にゆく、というのも宇野が浪人期を過ごしており、今は実家のある札幌とのつながりを感じさせる。但し、ここが北海道である、とはけして言わない。むしろ、北海道を強調させるモチーフと同じように、北海道ではないというモチーフも散りばめられてる。更に言えば「東京」以外の土地の名前、東北や九州といった地方名も、道府県も、市町村も、本作には殆ど(もしかすると、まったく)出現しない。すなわち、登場人物の名前やSF的ガジェットには固有名が与えられるが、一方で場所については東京以外のどこかの地方都市となり、固有名が与えられていない。これは、宇野が論考『郊外文学論―東京から遠く離れて』において以下のように述べたことと呼応しているだろう。
鉄道網と連動し老舗のデパートと昔ながらの商店街の支える地方「都市」から、ロードサイドの大型ショッピングセンターを中心に形成された地方「郊外」へ―日本の地方(田舎)の風景は大きく「郊外」のそれに傾き、その結果どこへいっても、いやどこまで走っても「同じ」風景が並んでいる。もはや私たちはオートバイや車を手に入れても容易に〈ここではない、どこか〉へは行けないのだ。どこまで走っても〈いま、ここ〉と同じなのだから。
宇野は、函館の町並みが、路面電車を含めた鉄道網と百貨店・商店街によって成り立っていた都市による消費が、その裏側を取り囲む産業道路(函館においては、函館山から望む扇形の夜景の奥を横切るイメージの道路)に形成された消費と変化したことで、土地の文脈に根ざした風景は大型商業施設の並ぶ風景となっていると指摘した。東京ではない「どこかの郊外」は、区別できない。だから、固有名を与られていないのだ。
土地のことだけではない、変身のために唱えられていた呪文にも含まれる「虫の眼」は、宇野の著書『砂漠と偉人たち』の第四部のなかにある章題にもなっている。宇野は数年前から、都心でカブトムシやクワガタムシといった甲虫を探し、動画や写真に収めるといったことを趣味としており、このことを次のように述べている。
このとき、僕は人間間のネットワークのことを忘れる。人同士の交わす視線と言葉の世界から離脱しない限り、虫たちには出会えないからだ。虫たちに出会うためには、虫の眼で世界を見ることが要求される。それはもはや視覚ですらない。[…]虫の眼でそこを見たとき、森はまったく異なる顔を見せる。森の中に入り、虫の眼で世界を見て、虫の足でそこを歩くことで、自分の暮らす街の中に人間の社会とは異なる論理に支配された場所を見つけ、そこに接することそのものの快楽のほうが心を捉えるようになるのだ。
『砂漠と偉人たち』第四部37章「虫の眼」より(朝日新聞出版,2022)
何故「虫の眼」がキーワードなのか。オルタナティブと怪人の戦いは、じつは現実世界では行われていない。現実世界と重なった別の世界に怪人は生息し、オルタナティブに変身することで人間は別の世界に干渉できる、という設定となっている。だから「虫の眼」をもつ、チーム・オルタナティブや主人公は怪人たちの脅威として、怪人たちの標的となる。ただし、怪人たちは人間を個体として認識することができず、人と人の視線や言葉のやりとり、ネットワークのみを認識する。だから、標的たる主人公と親しかった女教師や親友が怪人たちに殺められたのだ。
『虫の眼』を持つ人間が標的となることについて、作中では目的が不明であり、本能的に排除しているのではと言われている。しかし、我々読者はもちろん、作品だけでなく宇野の著作を用いて目的を探ることができる。仮面ライダーが表紙の著作『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎,2011)である。
ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである。
『リトル・ピープルの時代』より
ビッグ・ブラザーとは「共同体を維持するための大きな物語を守る超越的な父」であり、リトル・ピープルとは「大きな物語が崩壊したことで、個々が社会を維持する要員の一人とされる等身大の人々」である。『リトル・ピープルの時代』では、情報技術の進歩につれて、インターネットやサイバースペースというものが、仮想現実を扱っている世界観(ビッグ・ブラザー)から、拡張現実を扱う世界観(リトル・ピープル)へと変化していることを指摘した。その例示としてビッグブラザーに対応するものがウルトラマン、リトル・ピープルに対応するものが仮面ライダーである。
主人公は、社会が、学校が、友人たちが、受動的になにかを楽しんでいくことが好きではなかった。自分たちで紙製のボードゲームを作るとか、文化祭で生徒会や学校の裏をかいて小銭を稼ぐとか、高校生的な規模ではあるけれど、自ら何かを発見し、作ることを楽しんでいた。しかし、親友含め、友人たちは流行りのゲームや、下宿生の家での飲み会を楽しむようになっていく。チーム・オルタナティブは、主人公と強い関係性をもつ人間を減らすために、その疎外を加速する役割を担ったことで、終盤まで事件の黒幕として、主人公は睨んでいた。一方で、主人公は事件を巡るなかで、ひとりの女友達に惹かれていく。自分と違い、既にスーパーカブに乗り、自分の力でどこまででもゆける人。元々は孤独のためにカブで走ろうと思っていた主人公は、いつの間にか彼女と一緒に走りたいと願うようになる。主人公は女性の心の機微に鈍感な理屈っぽいやつである。が陥る色々な失敗を踏まえながら、恋愛関係を進めていく。
しかし終盤、花火大会の日であり、夏休み最終日。主人公は、恋人未満の女友達と行く花火大会ではなく、チーム・オルタナティブに真相を突きつけること(この時点では、主人公は三人組が女教師と親友を殺した犯人だと思っていた)を選択した。このことにより、虫の世界、オルタナティブの世界、すなわちオルタナティブと怪人との戦いの世界こそが現実であり、欲するものだったと気づく。この選択について、チーム・オルタナティブの一人である国語教師は言う。
お前はもう気づいているはずだ。いままで自分が生きていた日常こそが虚構で、いま直面している非日常こそが現実なんだ。人間同士のネットワークだけで閉じた世界こそがまやかしだ。安っぽい青春芝居はもう終わりだ。これは、戦争だ。戦争が始まるんだ。いや、そんなものはとっくに始まっているさ。問題なのはいかにケリをつけるか、それだけだ
「変身」のためには想像力が必要となる。想像力がなければ、現実と虚構を重ね合わせ、拡張現実を自分の現実として、受け入れ、戦っていくことはできない。人間同士のネットワークだけで閉じた世界で、友情や恋で人生を進めていくことではなく、そのネットワークから飛び出して、世界を守ることを選ぶ。その拡張現実に、主人公は生きがいを見出したのだ。
しかし、ここで切り捨てられた作中の青春要素について、主人公が青春よりも戦いを選択してしまったことで隠蔽されているが、描かれている個々のエピソードはしっかり輝かしい。男子だけで写真部の部室を占領し、焼きそばを作ったり、自作のボードゲームを楽しんだり、生徒会や教師の裏をかいて色々楽しんでいたことは『六番目の小夜子』や『都会のトム&ソーヤシリーズ』(はやみねかおる、講談社、2003-)のようなジュブナイル作品の王道路線である。宇野の食事系エッセイでは寮のメニューとして現れる「ゴム肉」の話は、内容自体は何度も読んでしまっているものだが、高校生が弁当や学食ではなく、学外のものを食べたいという欲望は『午後のチャイムが鳴るまでは』(阿津川辰海,実業之日本社,2023)にも、昼休みにラーメン屋に行けるか?という話があるように、現代でも通じる話題となっているだろう。
ヒロインの扱いについても、女友達が主人公が戦いに行くことを(女友達自身は何が起こっているか理解していないが)見送る場面は、もちろん『時をかける少女』等の作品でヒロインが主人公を待つシーンのベタなオマージュでもあるだろう。しかし、その女友達は既に免許とカブをもっていて、自分の意志でどこにだってゆけるし、元々進学したい先は主人公と同じ東京である、ただ待っているだけのヒロイン像からは進歩している。こういったベタな物語は、それを切り捨て戦いにゆく、ということを強調するために配置されている部分もあるだろうが、かけがえのない一瞬の煌めきとしての青春であることは疑いようがない。本筋では切り捨てているようでも、魅力的な青春がそこに描かれていることは否めない。遠目には、受動的な動物としての行動をしているように見える高校生も、ひとりひとりはかけがえのない一瞬のために、能動的に選択をしている。オルタナティブに変身する3人組と主人公だけではなく、ただの人間のままであるヒロインも、友人たちもどこかで「変身」をしているのだ。
『チーム・オルタナティブの冒険』は宇野常寛がインターネットや書籍といったメディア上で展開してきた、批評や活動、その内側の理念や哲学を、ベタに物語に載せたことによって生まれた作品である。先の国語教師のセリフもまた、自身のオマージュである。宇野は『遅いインターネット』(幻冬舎,2020年)で次のように述べる。
戦争なんてまだはじまっていないじゃないか。そう考える人も多いだろう。けれど、違う。戦争はもうとっくにはじまっているのだ。平成と呼ばれた「失われた30年」がはじまったあのときから、いや、そのはるか以前から戦争ははじまっていたのだ。ただそのことに、僕たちが気づくのが遅すぎた。そして、僕たちはいま戦争に負けていることから目をそらすための楽観主義に陥っている。
『遅いインターネット』より
宇野が、作中に自らに似た境遇の人物を登場させ、自分の行動を高校生同士のなかでイケてないものとして自嘲的に指摘したり、逆にコミカルで薄っぺらい国語教師に言わせてその場の誤魔化しのようなものに思わせたりする。チーム・オルタナティブの正体が明かされたあとは、本来的にどれも宇野の批評のなかで使われてきた武器であることを思い出させてくれる。現実世界を解釈するための批評を、フィクションに適用することで脅威と戦う武器として扱う、という展開をベタ中のベタの形で、恥ずかしげもなく仮面ライダーとウルトラマンを召喚させる本作は、たしかに宇野のこれまでの仕事の集大成といえるだろう。
私たちはこの貧しく、卑しい現実に接続し、更新する他ない。それもバケツに空いた穴をふさぐような想像力の要らない仕事(最適化)ではなく、新しい井戸を掘るような想像力の必要な仕事(再構築)として、私たちはこの国の「失われた20年」に失われた可能性を、今こそ回復すべきなのだ。これは想像力の必要な仕事だ。『母性のディストピア』(宇野常寛,集英社,2017)