歴史感覚の浅さについて-建築ジャーナル・特集:アイヌ民族と建築‐を通して

Kamiyama-6hito
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※本論は執筆している北海道論 https://note.com/photo_1236/n/nd43ec3fb1ba9 の2章1部になります。

歴史感覚の話に入る前に、改めて北海道の歴史を振り返る。縄文時代以後、内地は弥生時代に変遷しいわゆる「日本史」へと進んでいくが、北海道はそのまま続縄文時代に入り、アイヌ文化へと変遷していく。時代が進み、室町時代頃には豪族が北海道南西部・渡島半島南端に館を構え、江戸時代の松前藩へとつながっていく。そして明治維新後、開拓史が置かれた1869年に「北海道」が誕生する。北海道以後現代までつづく開拓と開発、文明化のなかで、和人によるアイヌへの征服・侵略行為があったことは確かだろう。たとえば、日本政府は明治32年にアイヌを日本国民に同化させることを目的とした「北海道旧土人保護法」を制定した。土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策をすることを旗印としていたが、実態は、和人の移住者に大量の土地を配分した後にアイヌに改めて土地を付与した上に、アイヌに付与された土地の多くが開墾できずに没収されたり、戦後の農地改革で強制買収されたりと、アイヌの土地を和人がコントロールするものであった。しかも、平成9年7月に『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律』が施行されるまで、旧土人保護法は効力を持ち続けた。法律による政府と民族との関係だけでなく、実際の北海道の地における開拓の際、アイヌの文化とは異なる手法での狩りや文明化により、失われた生態系や文化などもあるだろう。

こういった北海道の歴史に対して、北海道で生まれ育った人が抱える感覚について考えると、明治維新以前が見渡しにくくなっている。先住民族であるアイヌが文字を使わず、基本的に文様や口伝によって情報を伝達してきたということも一因かもしれないが、多くのひとがイメージする「北海道」は開拓以後から始まっている。アイヌ語由来の河川、例えば北海道大学札幌キャンパス内を流れるサクシュコトニ川など、由仁町のヤリキレナイ川などを日本語での音や意味合いで名前で面白いと言ってしまう無邪気さも、開拓以後日本史に合流したという錯覚に基づくものだろう。このことについて『建築ジャーナル2023年10月号特集・アイヌ民族と建築』(以下、建築ジャーナル23年10月号)にて、日本近世史を専門とする北海道大学文学研究院教授・谷本晃久は次のように述べている。

北海道のなかでも札幌のような、道南の松前や函館ではなく、昔の蝦夷地と呼ばれた地域は、明治維新前の歴史との連続性がなかなか見えづらくなっています。札幌は明治になってからできた、というイメージが強くて、実際には町割なども全部計画的にされているので、明治以前は無人だなんていうふうに私の子どものころは語られていました。

前掲書内「座談会・札幌アースダイブから見えててきたもの」(松本晃久+マユンキキ+小田原のどか+山川冬樹)(2023,企業組合建築ジャーナル,p.14)

谷本は1970年札幌生まれである。座談会では、地方によってアイヌ文化とのかかわり合いに濃淡はあるものの、多くの北海道生まれのひとが抱えている歴史認識は明治維新が境となっており、かつアイヌを透明化してきたことが示唆される。同じ座談会のなかで谷本は、北海道の子どもたちが修学旅行で明治以前から長くある和風の歴史文化に触れることや、指導要領における東京基準の「身近な歴史」のありかたと、現実の北海道の歴史の差異によって、北海道の歴史が浅いという認識を子供の時から得てしまうことを指摘する。わたし自身も中高の修学旅行で鎌倉や奈良・京都へ行っており、各地に観光で渡り明治以前の歴史的建造物や遺構を見て、教科書における日本史と自身の経験を擦り合わせていた。他都府県よりも過去の記憶や記録の継承経験が少ないという実感もある。

また、建築ジャーナル23年10月号では札幌アースダイブと題した、札幌を中心としたアイヌ民族と建築をめぐる旅が提案される。この旅では、札幌市内では北海道大学や、北海道博物館、北海道百年記念塔(7月頃、2/3程度が解体されてしまった状態)に、加えて札幌市外では白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)や旭川市の川村カ子トアイヌ記念館等に訪れている。旅程を終えたあとの座談会にて、札幌アースダイブではセトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)が鍵概念となっており、開拓後150年以上経った今も、北海道をめぐる価値観に影響していることを、小田原のどか(1985年宮城県仙台市生まれ。彫刻家・評論家・出版社代表)は指摘する。

小野田‐北海道を舞台とした セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義) と呼ばれるセトラー (入植者)による植民地支配の一形態が、 重要な鍵概念であることを確認しておきたいです。 これを実感するためにも、 谷本さんと札幌を歩いたアースダイブは有効だったと思います。[…]北海道植民地支配ゆえに、 固有の文化を禁じたり、 住む場所や生活様式を強制したりすることが起こった。入植者は入植を正当化するため、加害や抑圧を忘却する傾向があることも、セトラー・コロニアリズムの表れとされます。[…]アイヌ民族に同化を強いた歴史的事実についても、うまく主語をぼかして、私を含むマジョリティである和人との連続性を感じさせないようにしていると思いました。

前掲書内「座談会・2泊3日の取材旅行を終えて」(マユンキキ+小田原のどか+山川冬樹)(p.20)

山川、小田原、マユンキキ(アイヌの伝統歌を歌う「マレウレウ」「アペトゥンペ」のメンバー。アイヌ語講師。札幌国際芸術祭2020におけるアイヌ文化コーディネーター)は同座談会にて以下の通り、ウポポイの民族共生象徴空間という名付けや、その展示についても言及する。

山川‐「民族共生象徴空間」という名前にも個人的には違和感を覚えました。 あそこを「空間」という言葉で括ってはいけないんじゃないか。 だって本来は北海道全土がアイヌの人たちが生きてきた空間のはずじゃないですか。 空間には内部と外部があるわけで、あそこをアイヌの「空間」として括ってしまったら、その括りの外部はアイヌの空間ではないという話になりかねない。小田原‐私は、現代の建築基準法に則ったチセと、伝統的な方法でつくられたために施設の基準を満たせず、内部に来場者が入れないチセが並んで建っている状況自体が重要だと思います。 ウポポイがどういうふうにつくられているのかが端的にそこに現れているわけです。 来場者が現代的なチセで何か不自然さを感じるとしたら、 それはなぜかを掘り下げると、自分がいかに偏った考え方をもっているか、 傲慢な幻想を押し付けているかに気がつけるのかなと感じます。マユンキキ-伝統的な方法でつくられたチセの方も、入れない理由をちゃんと書いて欲しいですよね。 あそこで働いているアイヌの人たちは、見てもらいたいと思っているから。 誰の指示で入れないのかを明確にしないと、やっぱり攻撃対象はアイヌにしかならない。それが法律や、守らなければいけない基準のためにそうなっているのだとしても、攻撃されるのはアイヌだから。

前掲書、同座談会(p.22)

このことについてはわたし自身もウポポイを訪れた際に、その小綺麗さや、あえて順路を決めていないこと、館内マップにおける過剰なアイヌ語表記など、以前の白老ポロトコタンや、他の町にある小さな郷土資料館のような、いまの生活と連続性のある表現での情報の使い方ではなく、生活と切り離され客観的に資料を見せられる佇まいに違和感を覚えた。

既に解体が完了している北海道百年記念塔は新しいモニュメントに置き換えてもよいと考えられてしまうし、明治以前からの住人であるアイヌに触れる際には「民族共生象徴空間」をはじめとする、アイヌ文化を発信する空間の特別視、切り取りを挟んでしまう。

「アイヌ文化」を空間的に区切り、内包していたはずの歴史から外部化することで、トレンディドラマや漫画・アニメと同じ位相の物語と読み替え、「北海道らしさ」の強化するための外付けの要素として扱っているとも言えるだろう。※いま書いている北海道論は「北海道らしさ」というイメージの操作を巡ったものである

建築ジャーナル23年10月号は建築だけでなく、北海道の土地や地盤を巡る言説・文化について広範に語られている。和人やアイヌ、あるいは世代や居住地といった単純な垣根を廃して、広い目で北海道としての歴史の在り方について、

再検討していくべきだろう。

@1236dominion
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