ゴジラ-1.0 について

Kamiyama-6hito
·

『ゴジラ-1.0』(監督:山崎貴)を見た。本作はゴジラ70周年記念作品として作られ、2016年公開の『シン・ゴジラ』(総監督:庵野秀明)以来7年ぶりので実写映画のゴジラ作品である。ただし『シン・ゴジラ』以降一切ゴジラシリーズに進展がなかったわけではない。虚淵玄が原案・脚本を担当したアニメ映画『GODZILLA』3部作(2017-2018、監督・静野孔文、瀬下寛之)や、円城塔が脚本を担当したNetflixオリジナルアニメ作品『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』(2021、監督:高橋敦史)はアニメーション作品として『シン・ゴジラ』以降の新たなゴジラを提示している。

海外ではレジェンダリー・エンターテインメントが製作し、ワーナー・ブラザース・ピクチャーズが共同で製作・配給するモンスター・ヴァースシリーズが2014年の『GODZILLA ゴジラ』(監督:ギャレス・エドワーズ)を皮切りに『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019、監督:マイケル・ドハティ)『ゴジラvsコング』(2021、監督:アダム・ウィンガード)が公開され、日本国内だけのものではなく、アメリカや地球規模で暴れる破壊王ゴジラが顕現してきた。

これら2010年台以降のゴジラ作品を踏まえた上で、今回の『ゴジラ-1.0』は改めて戦後初期である1947年頃の東京を主な舞台としている。2010年以前のゴジラシリーズは1954年に初代ゴジラが発生した世界線を採用しているが、『シン・ゴジラ』は改めてゴジラが初めて現れる、という世界観を描いた。本作は時系列を初代ゴジラ以前の1947年頃に合わせ、その上で初めてゴジラと遭遇する日本人を描いている。初代ゴジラの1954年と7年程度の違いだが、GHQによる警察予備隊の配備が1950年であることを考えると、最も脆弱な頃の戦後日本とゴジラが相対するのだ。

物語の中心は帰還兵・敷島(演:神木隆之介)。彼は、特攻による死の恐怖から大戸島の臨時飛行場に着陸し、その場でゴジラサウルスに整備兵ともども襲われる。結果として、敷島と一人の整備兵を残して大戸島にいた人間は死んでしまった。彼らの死を背負いながら空襲後の東京へ帰ってきてしまった敷島は、家族の死を知る。どうにか生きていた敷島は、闇市で孤児である明子と、明子を拾って生き抜いていた典子(演:浜辺美波)と共同生活を送る。敷島は生活を続けるために復員省の戦後処理業務として機雷除去の仕事を始める。ここで典子・明子は敷島が守らねばならないものという役割を担う。ただし、敷島は典子の好意や明子の成長を目にしながらも、亡くした両親や、見殺しにした整備兵たちのことを背負っており、彼女たちと家族になることを選べないでいた。また、機雷除去の仕事で乗船する木造船「新生丸」で艇長の秋津(演:佐々木蔵之介.)、乗員の野田(演:吉岡秀隆)、見習いの水島(演:山田裕貴)と敷島は出会う。この4人は敷島の家に入ったり、ともに酒を酌み交わしたりと仲が深まってゆき、最終的にゴジラを倒すために重要な役割を担うこととなる。

『シン・ゴジラ』と対比させると、本作は登場人物の人生のなかでゴジラや戦争といったものとどう向き合い、克服するかという人間ドラマを中心に展開される。初代『ゴジラ』から『シン・ゴジラ』まで、多くのゴジラシリーズでは政府、自衛隊や地球防衛隊といった組織がゴジラという強大な個体と戦うということをメインに置いてきた。特に『シン・ゴジラ』は登場人物のバックボーン、役割外の姿を殆ど映さず、ストイックなポリティカルドラマとしたことで評価を得ていた。一方で本作は、民間人の有志が集まって、民間の力だけでゴジラと戦うという展開となっているように見える。お国のために、ではなく、自らの生活のために戦う。GHQや日本政府は表立って登場しないどころか、彼らでは勝てないことが早々に提示される。民間の力で鹵獲されていた重巡洋艦や駆逐艦を動かし、民間の力で試作の局地戦闘機を復活させ、民間の力でゴジラを深海に引きずり込んだり急浮上させるシステムを作ったりする。

物語構造としては、組織的に行われているようだが、作劇上はそうではない。作戦を提案したのは新生丸に乗っていた野田であり、システムの起動スイッチを押すのは秋津であり、不測の事態に助けに入るのが水島であり、ゴジラを戦闘機で撹乱、誘導するのは敷島である。多くの登場人物が入り乱れて役割を果たすわけではなく、どんなに登場人物が多くなろうとも、敷島の知り合いの範囲でしかドラマが展開されない。物語中で典子が銀座で仕事を始める、という初期サザエさん的な展開があるが、その中で典子に変化があるのは容姿だけであり、彼女の仕事ぶりや銀座の復興ぶりについて言及されることは殆どない。銀座の復興状況が観測できるのは、ゴジラがやってきて破壊する時である。ゴジラの出現も、敷島の人生の転機と重なっており、突如現れる厄災というより、敷島に憑いた呪いという印象が強くなる。特攻から逃げ出したら、ゴジラザウルスに襲われる。新生丸で生活を立て直したら、ゴジラに襲われる。典子・明子と幸せになろうとしたら、ゴジラに典子を奪われる。そして、すべてを振り切りふたたび特攻を決意した時、ゴジラは呼応するように最終決戦に現れる。すなわち、本作では徹頭徹尾、敷島個人とゴジラとの戦いが描かれるのだ。

多くの観客が『シン・ゴジラ』と比較して本作について語るだろう。この文章も意図的に、同作と比較した人間ドラマや、ゴジラとキャラクターの関係について述べた。しかし、本作はどちらかと言えば『GODZILLA 怪獣惑星』を第一作とするアニメシリーズ三部作(以下、アニゴジ)のアップデートと考えるべき作品だ。アニゴジは、ゴジラに征服されてしまった未来の地球を地球人と2つの異星種族ビルサルド・エクシフの連合が、ゴジラを打倒し取り返そうとする物語。結果として、異星種族がそれぞれ最終兵器として抱えていたメカゴジラ、ギドラが共にゴジラに倒されるも、残った地球連合は未来の地球に残り続けていた地球人・フツアの民と共に文明を捨て、ゴジラとの戦いをやめて生きることを選択する。しかし、主人公であるハルオは家族、恋人、友人といった大切なものを奪ったゴジラへの憎しみを断ち切ることはできず、物語の最後にゴジラに特攻して死ぬ。『ゴジラ-1.0』は本作と同様に、敷島が大切なものを奪ったゴジラに対して特攻を決意するも、最終的には生きることを選択する。最後に生存したかどうかは異なる点だが、一方でともに終わりを自己決定するという点では同じとも言える。メカゴジラやギドラという他星の強大な力でなく、地球人類自身の力で向き合うアニメ『GODZILLA』三部作の核となるテーマなのだ。アニゴジが未来の地球で300m級のゴジラが地球を征服しており、勝利することが不可能という設定も、『ゴジラ-1.0』が最も脆弱な頃の戦後日本とゴジラが相対するという状況と重なる。けして勝てない相手に対して、個人が生殺与奪の権を譲らないというテーマは、『シン・ゴジラ』の日本という国の不撓不屈な点、スクラップ・アンド・ビルドで戦後も、種々の災害後も復興し、前進/進化してきた点とフォーカスが異なる。強大な力に対して個人が何を決定するか、戦争や災害やゴジラといった強大な相手にも、個人は立ち向かうことができる、生きて抗うことができる、というのが『ゴジラ-1.0』の核となるテーマである。

映像作品としての『ゴジラ-1.0』は、東宝の大プールを彷彿とさせる海上戦、戦闘機アクション、スピード感のある建造物の投擲、ゴジラによる復興直後の都市破壊など『シン・ゴジラ』における特撮的なチープ感を残した映像ではなく、実在感のあるリッチな映像として表現されていた。すなわち、時代考証やストーリーの整合性ではなく、画作りという点ではリアリティを志向していた。人間ドラマにおいても、典子の退場シーンにおける絶望は『シン・ゴジラ』における内閣閣僚ヘリが放射熱線で墜落するシーンの絶望よりも強く印象に残った。終盤の水島が民間船を引き連れてくる場面も『HiGH&LOW』シリーズにおける村山(演:山田裕貴)が「いくぞテメェら」の掛け声とともに鬼邪高校(おやこうこう)の面々で乱戦の場に乗り込むシーンを彷彿とさせる興奮を観客に響かせただろう。その他、戦争や特攻自体は悪と認識しながらも、軍国的なガジェットや特攻精神にカッコよさや意義を見出すこと、高度経済成長以降のジャパン・アズ・ナンバーワン的な民間の力を結集して困難を打開するというロマンも多くの日本人に響いてしまうものだろう。戦中戦後のアメリカのことを忘れ、戦争を災害のようなものとして扱ってしまっていることも、現代人の平均的な認識であり、ロシア・ウクライナ情勢やパレスチナ情勢と組み合わせて考えたり、当時のポツダム宣言やGHQの本来の役割と重ねて違和感を覚えるのはおそらく少数派なのだろう。エンタメとして広がることも考えれば、今後ゴジラがふたたび現れるために必要な役割を本作は果たしたと思う。

何よりも『シン・ゴジラ』のときは定置網でゴジラを捕まえるという、受動的漁法と能動的漁法について理解のない作戦提案があったが、本作では駆逐艦2隻による巻き網を中心とした作戦によりゴジラに有効な攻撃ができた。現代漁業の知識がアップデートされたことを感じられる点でも、良い作品だったと思う。

お読みいただき、ありがとうございました。

@1236dominion
おたより戦士として、お白洲におたよりを送っています。シラスマイページ→ shirasu.io/u/Kamiyama_6hito