『君のクイズ』(朝日新聞出版,小川哲,2022)から「クイズ」「ミステリ」の構造を振り返り、構造を用いたゲームやフィクションの形式が、現実世界に及ぼす影響、具体的には「ナニカグループという陰謀論」について考える。
『君のクイズ』は、クイズ番組の決勝戦にて主人公が、対戦相手の不可解な正解、ウイニングアンサーにより敗退するところから始まる。不可解な正解とは、問題を聞く前にボタンを押しての正解である。対戦相手は早押しクイズ0文字押しから、ヤラセを疑われ炎上し社会から姿を消してしまう。相対した主人公だけが公正な大会だったことを信じ、何故相手が正解を導き出せたのか、問題をひとつひとつ振り返り、超能力やヤラセではなく、論理的に導出できる答えだったことを明らかにしていく。作者である小川は『地図と拳』(集英社,2022)で直木賞を受賞し、現在注目を集めている作家である。直木賞発表後の1月20日『君のクイズ』は2023年本屋大賞ノミネート作品に選ばれた。又、本作はあいけ@aike888g氏による【あいけ式ベストハンドレッド2022:どきどきバニラビート編 https://note.com/shimakzk/n/n8dfe53cac505 】にもランクインしている。
あいけ式ベストハンドレッドにもある通り、本作は「競技クイズ」と「ミステリ」というジャンルの重ね合わせに、更に「人生」を重ねている。競技クイズについては言わずもがなYoutubeを中心に伊沢拓司が率いるQuizknockが流行り、テレビでは「東大王」「くりぃむクイズ ミラクル9」「ネプリーグ」等、民法各社ゴールデンタイムに何かしらの番組を抱えている。ミステリも、ミステリランキング席巻という書店やファンコミュニティの内輪だけの盛り上がりではなく、『屍人荘の殺人』(今村昌弘、東京創元社、2017)、『medium 霊媒探偵城塚翡翠』(相沢沙呼、講談社、2019)など近年、謎の明確化と論理的解決を主軸とする本格ミステリ性を損なわない形でメディアミックスされており、ジャンル・コードがより広く浸透しつつあるだろう。
・クイズとはなにか
改めて、クイズとは何か。伊沢拓司は『クイズ思考の解体』(朝日新聞出版、2021)にて次のようにクイズの共通項を並べている。
箇条書きでそれら「クイズを楽しむ文化」の共通項を述べるとしたら、以下のようになるだろう。 ・問いがあり、それに答える ・何かしらに知識を運用する ・(意図的に外しているものを除き)論理的に解答へと至ることができる ・何らかの喜びをもたらすエンターテインメントである。(『クイズ思考の解体』p.10-11)
これは「クイズを楽しむ文化」についての共通項である。対象とする言葉を端的に「クイズ」に狭め、クイズ番組や大会といった文化の総称ではなく「個別の単文によるクイズ問題そのもの」とすると、第4項のエンターテインメント性を省くことが可能だろう。「何かしらに知識を運用する」は、β-エンドルフィン分泌のような生理的な多幸感を除くと、クイズに関わらずあらゆる文化には「ヒトの意図=何かしら知識を運用されたもの」が介在することから、これも省くこととする。残りの2つの共通項を言い換えると「問いと答えが分割されている」「問いと答えは論理で接続される」となる。つまり、クイズを構成する要件として
・要件①「問いと答えが分割されている」=問答形式 ・要件②「論理的に解答へ至ることができる」=論理性
があると言えるだろう。更に、『クイズ思考の解体』Chapter2「早押しクイズの解体」における問題文の構造解析において「最終的に出題者が想定した一つの回答に至れるように調整されており、問題文が進むほど回答選択肢が狭まっていく」という、問いと答えの一対一対応が時間経過的に明らかになっていく特徴が提示される。この特徴について伊沢は選択肢が一つに絞られていく様から「デクレッシェンド(音楽記号:>)する」と表現している。
・要件③「問題が進行するほど、答えとなりうる選択肢が絞られていく」=デクレッシェンド性
この3つの要件が端的に「クイズ」といった時に問題がもつ性質といえる。
尚、クイズとよく似ていると思われるジャンルとして「謎解き」(ここで謎解きを「単問のクイズ」と同様に「単問の謎解き問題そのもの」を指す)がある。謎解きはクイズと同様に要件①:問答形式で提示される。たとえひらめき問題と言われていても、解説などで納得や理解される解答があり、要件②:論理性 も満たしている。但し、問いの文章が進行しても、解答への選択肢は狭まらず、要件③:デクレッシェンド性 は満たされない。茂木健一郎が一世を風靡したアハ体験・静止画の時間経過間違い探しパズルが顕著だが、回答者が自ら試行錯誤することで、解答に至る。謎解きにおいては出題側ではなく回答側がデクレッシェンドをしていると言い換えられる。クイズも謎解きも共に論理的に解答へ至ることができるものだが、選択肢を削る=デクレッシェンドする主体については、クイズは出題側、謎解きは回答側という違いがあるのだ。
・クイズとミステリについて
クイズについて物語評論家・さやわかは『答えは人生を変えない』(『世界を物語として生きるために』(青土社,2021)において、次のように述べている。
『クイズマジックアカデミー』の問題文で語られる内容は、このゲームの登場人物たちにとって基本的に無関係な、別の世界についてのものである。テレビ番組についてであっても、スポーツについてであっても、あるいは歴史についてであっても、登場人物たちからすればそれは、いわゆる知識ですらないはずだ。[……]クイズという遊びにおいて、問題文の内容は、常に、それを答える者が現在置かれている状況とは関係がない。 [……]クイズは、僕たちの人生に関係するものではなかった。しかしそれは、キャラクターの人生にも関係しない。むろん僕たちの解答によって、画面に映し出された物語世界は変化していく。画面内と、自分の間には、繋がりがないのだと、断絶があるのだと思わせてくれる。だが本来ゲームはそのようなものである。だからこそ、我々はその内部に干渉出来たかのように錯覚したとき、それを錯覚であると知りながら、新鮮な感動を覚えるのだ。(『世界を物語として生きるために』p.195-196,203)
引用の前半部は批評の序盤にあたり、ゲームの登場人物の物語とプレイヤーが答える問題に世界観レベルで重なりがないことを提示している。そのうえで後半部=批評の終盤は、問題に答えることと物語が展開することがまったく断絶しているにも関わらず、プレイヤーがプレイの経験と物語の進行の接続を錯覚することで、感動を覚えることを指摘する。
引用は特にコンピュータゲームにおけるクイズについて述べられているが、現実の競技クイズ大会やリアル脱出ゲームといった物理空間でのゲームでも起こりうる。高校生クイズの優勝を決める最後の問題が【クリスマスツリーの一番上に飾られる星の名前は何?】であることは、各校の競っている状況とは全く関係がないし、リアル脱出ゲームの目的が殺人事件の解決でも、手段として絵合わせパズルやしりとりを解かされることは少なくない。
ミステリはクイズや謎解きと異なり、状況と問題が連動している。誰がどのようにして殺人を行ったのか、という起こっている事件そのものが問題となり、解答は物語における事件の解決と直結する。特に、問題編と解決編が区切られる問答形式(要件①)と論理性(要件②)を満たすことが多いのジャンルとして、本格ミステリというものがある。但し、プレイヤーが介在できるゲームという形式を除くと、観客や読者の回答内容は映像作品や小説といった物語の進行に影響を与えない。
本格ミステリにおける「問題文」はいわゆる読者への挑戦状というものである。読者への挑戦状とは、小説をいわゆる「問題編」「解決編」と分けたときの中間に挟まれるもので、物語の流れが中断され、作者が読者に向けて「ここまでの物語において、提示されている謎を解くための情報は出揃った。読者も作中の探偵の通りの謎解きをしてみせろ」というものだ。物語で提示された方法に従う必要があり、解答だけでなく論理まで回答者が用意しなければならない場合が多い。つまり、単問のクイズや謎解きは直観的に思いついた答えが、用意された答えと合致していても正解となるが、ミステリにおいては必ずしもそうならない。
本格ミステリにおける問題文は、単問のクイズに比べて長いものの、出題側=作者による解答候補の絞り込みは発生している。たとえば、ワトソン役がホームズに対して解答とは異なる答案を提出し却下される、容疑者に強固なアリバイが発生し犯人たり得ないと判明する、など。解決に必要な情報は事件発生から挑戦まで、物語の流れに従って作者から提示される。挑戦状を受ける読者は、作者によるデクレッシェンドのみならず、自ら手がかりを探し試行錯誤しなければ真相に至れないことが殆どだろう。
・『君のクイズ』と「ナニカグループ」について
『君のクイズ』は、登場人物が問題文が1文字も読まれてもいないクイズをどうして解けたのか、という問題に主人公が挑み、ミステリの手法を使いながらクイズの構造について明らかにする作品だった。競技性の高いクイズにおける超人的な早押しがマジックではなくロジックであるという手触りは、伊沢拓司の『クイズ思考の解体』や『ユリイカ・クイズの世界』のアレンジとも言えるだろう。また、自身の経験やメタ的な情報からデクレッシェンドすることにより、回答へ至るという謎解き的な手法は、『ユリイカ』掲載の田村正資「予感を飼いならす―競技クイズの現象学試論」でも述べられているものである。
『君のクイズ』での問題「なぜ0文字解答ができたのか」は、主人公が集めた様々な情報により、確かに回答可能なものであったと論証される。しかし、その論証だけが物語に幕引きを与えるわけではない。そこには「なぜ0文字回答をしたのか」という動機の面での謎が隠されている。本作は「どのように回答できたのか」というハウダニット=方法論についてはクイズの・謎解きの・ミステリの手法で解答できることを示すと同時に、「なぜ回答したのか、行動したのか」というホワイダニット=動機論はミステリの手法で導き出せないという限界について提示している。この限界こそが、あいけ式ベストハンドレッドにおいて「観念的なロジックばかりこねくりまわしてる場合じゃない、人生」と呼ばれたものだろう。
この限界について、多くの人々は鈍感になっている。様々なマンガやアニメ、あるいはカルチャー全般についても解釈を広げるのではなく、整合性がとれた完璧な解釈を求める考察動画や、監督や脚本家による公式見解を求める現象が散見される。現行の作品・コンテンツは「問い」であり、対応する唯一の「答え」があると信じられているのだ。更に、最近のTwitterやnoteを代表するSNS上では、現実の問題に対してまでクイズ・ミステリ的な「答え合わせ」の手法を拡張・駆使した「真相」信仰が跋扈しているだろう。
市村健太による批評文『《エンキリディオン Enchiridion》——山上徹也容疑者の未発表論文「哄笑」を読む』(週末批評、2022年)https://worldend-critic.com/2022/12/03/enchiridion-ichimurakenta/ は、2022すばるクリティーク賞落選作「まなざしの煉獄、金属バットの哄笑」という文章が、安倍晋三元首相銃撃事件の犯人である山上徹也容疑者が偽名を用いて応募したのではないか、と仮定した陰謀論的批評文である。これもまた、あいけ式ベストハンドレッドにランクインしている。批評という手段は、考察動画や公式見解のような唯一解を目指すものではなく、いくつもの可能性のうちの一つというレベルに真実性を希釈することを可能にする。《エンキリディオン Enchiridion》が成立するのは「批評」というカテゴリにいることに自覚的だからである。批評を真に受け、何の留保もなく根拠として現実を語ってしまえば、《エンキリディオン Enchiridion》は単なる陰謀論と化してしまう。このことを多くの人は忘却しており、最たる例が暇空茜による「ナニカグループ」だろう。
「ナニカグループ」とは暇空茜という個人が提示する補助金や助成金を不正に収集していると言われている集団である。暇空氏は、国が東京都に対して出している助成金を基にした補助金を、colabo(代表・仁藤夢乃)が不正に受給しているのではないかという監査請求を行いながら、colabo含めた4支援団体が議員などと手を組んだ集団「ナニカグループ」である、という理論を平然と流している。
「ナニカグループ」の存在は、現実をシミュレーションゲーム的な計算可能なもの=長大なクイズとして捉えてしまったことによる典型的なデクレッシェンドのミスだろう。『君のクイズ』において解けないものとして提示された動機論、人生の在り様を暇空氏は「認知プロファイリング」という必殺技で解決したかのように述べる。更にフーダニット=犯人探しにも必殺技を拡張した結果生まれた概念が「ナニカグループ」である。
当然、現実はクイズや謎解きやミステリのように解かれるものとして作られてはいない。にもかかわらず、共通する人物や発言などに着目し、文脈を無視した結合と単純化を進めることで、犯人としての「ナニカグループ」という強固な集団が存在するかのように錯覚してしまう。行政の実態としては、様々な補助金を交付すること自体が自治体の実績となることや、各事業につけられた予算を消化しなければ次年度の事業が削減されたりすることを理由とする、功利主義的な力学により自然と偏りが出る(これを「忖度」という向きもあるが、もっと無自覚な行為だと個人的には思う)ものであり、強大な組織がなくても成り立つ現象である。この見方に立てば、現在暇空氏が提示するcolabo問題に国家予算を吸い上げる黒幕がいるのではないか、という考え方は飛躍が激しい。
巷に溢れるワンピースやポケモンに隠された伏線と今後の展開を予測する考察動画も、作品に散りばめられた要素すべてが、理由があって存在している「真実の断片」とみなされることが多い。現実にある伏線のようなものは大概が書き間違い、見間違い、置き忘れといったヒューマンエラー、瑕疵であり、存在に理由がないものが殆どである。目の前にある現実問題に対して、解決策を検討するとき、クイズ的思考やミステリ的思考、どのような思考法を用いてもよい。
呪術廻戦において五条悟は自動で発動する自身の術式に脳が焼き切られることを防ぐため、反転術式で脳を回復し続けている。反転術式に相当することが、現実は非論理的であると認識することであり、カテゴリを忘れないことである。現実をクイズの問いとして認識し、論理的解決が可能なものと認識する必殺技に頼り切ってしまうと、机上の空論にすぎない仮説を、強固な真実と信じ込んでしまうこともありうる。ゲーム的な全能感により現実世界を解釈するのは楽しいが、アハ体験的な快楽に駆動されるSNS上での友敵を分断する陣取りゲームは、実際に存在する社会の課題を解決するわけではない。陣取りゲームのプレイヤーではない我々は、「真実」の存在証明に賭け一喜一憂する必要は全くない。それよりも、外野にも関わらずゲームに乗っていく政治家や学者がどういった人々か覚えておくことや、実際に官庁のウェブサイトで補助金の募集要項などを直接読むことが、今後人生で何かを選択する時に遥かに有用である。