古野まほろについて2

Kamiyama-6hito
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古野まほろは本格探偵小説の作法の中で、デビュー作『天帝のはしたなき果実』から通底して、ヒトとヒトは分かり合えるのかということテーマの一つに挙げている作家である。近年は現実世界に近い世界観の物語として警察小説や、自身の警察官としての経験などが反映された新書なども執筆していた。ときにその知見に基づいてインタビューなども受けている。

古野は、作品が小説=文字列であることに自覚的な作家である。キャラクターの容姿や性格などは極めてマンガ・アニメ的でありながらも、あくまで文字列として物語を提示している。これはデビュー作『天帝のはしたなき果実』(講談社、2007年)、現代を舞台にした警察小説『新任巡査』(2016年)、最新作『侵略少女 EXIL girls』(光文社、2022年)に至るまで通底している。「口を隠せば似ている、というセリフがあったから、マスクをすることで入れ替われた」「死体の解体に使った刃物が単なる量販品ではなく『名刀』だから、解体時間を最小限にできた」「お嬢様言葉が間違っていたので偽者だ」といった具合に、作品中の推理の根拠としても扱われる。現実世界では人々の癖は100%発現するものとは限らないし、勘違いや気まぐれだって起こすだろう。どんなに切れ味がいいナイフでも死体の解体に時間はかかる。しかし古野は、本格探偵小説というメディアの特性や規則・規範によって、どんなに荒唐無稽でも、一言一句意味があるものとして扱う。

今回は、とりわけ「記述されている」ことをキャラクターが利用する"戦う少女本格"について述べる。奇しくも、というより、不幸にも、絶筆宣言を帯据えられた最新作もまた、"戦う少女本格"である。

”戦う少女本格”に含まれる作品は以下の通りである。『その孤島の名は、虚(きょ)』(KADOKAWA,2014)※初出時、虚のルビはなく、文庫版にて追加された『禁じられたジュリエット Juliette et Juliettes Pour Toujours』(講談社,2017)『終末少女 AXIA girls』(光文社,2019)『時を壊した彼女 7月7日は7度ある』(講談社,2019)『征服少女 AXIS girls』(光文社,2021)『侵略少女 EXIL girls』

世界観やキャラクターを他作品と一部共有しているものの、それぞれ個別の作品である。「天国三部作」も三部作を謳いつつも舞台やキャラクターは毎回異なり、単独で読んで問題ない作品だ。

”戦う少女本格”においてキャラクターが「記述されている」ことを利用できるのは、どれもいわゆる論理パズルをベースとしながら、本格ミステリを行うという趣向だからである。その中でも天国三部作は「正直村と噓つき村」という論理パズルのアレンジであり、古野作品の『背徳のぐるりよざ―セーラー服と黙示録』(KADOKAWA,2013年)の発展形とも言える。絶対に嘘を言えない/嘘を言えるという、仮想的な設定の為に、天使や悪魔といったヒトならざるものを用意した上で、殺人事件などが起こり、犯人探し・世界設定の解明がなされる。勘違いや攪乱プレイのない純朴な人狼ゲームとも言えるだろうか。そういった意味で、極端な作品群でもある。

"戦う少女本格"は2014年9月末に出版された『その孤島の名は、虚』(以下、その孤島)に始まる。古野はこの作品の著者紹介で初めて、自らの出身が警察官僚であることを明かした。

東大法卒。リヨン第3大法「Droit et Politique de la S´ecurit´e」専攻修士課程修了、仏内務省から免状「Dipl^ome de Commissaire」授与。なお学位授与機構より学士(文学)。警察庁1種警察官として交番、警察署、警察本部、海外、警察庁等で勤務の後、警察大学校主任教授にて退官。宇山日出臣氏(故人)が発掘した最後の新人として、第35回メフィスト賞を受賞した『天帝のはしたなき果実』でデビュー(刊行時著者略歴)

古野まほろ作品の〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉というテーマに焦点を当てる為に非現実的な世界で本格探偵小説を展開した一つ目の作品が、『その孤島』である。本作はノンシリーズだが、前述した通り”戦う少女本格”という括りの各作品へと発展していく。

あらすじは次のようなもの。【東京都立吉祥寺南女子高等学校(吉南女子)吹奏楽部の女生徒たちが、夜遅くまで練習に励んでいた五月のある日、彼女たちは音楽室ごと現実世界から蒸発し、現実世界とは異なる法則に支配されている謎の島へ飛ばされる。島には影のように真っ黒なヒト=影族・シルエット人や螢のように光るヒト=光族・キラキラ人が存在した。この島を支配する法則とは何なのか、女生徒たちはこの島から脱出することができるのか。】

極限状況の中、団結するべき彼女たちは「シルエット人」「キラキラ人」「影にも光にも属さない個人・おシマさん」の3勢力に分断されてしまう。特にシルエット人とキラキラ人はそれぞれを憎悪し対立している。彼らの憎悪に当てられて、彼女たちもまた楽器ではなく武器を手に、争いを始める。分断が起こるとき、本文では以下のように語られる。

[...]考え方や信じるものの近い人々こそが、絶滅するまで戦うことの証拠である。お互いをよく知り、大切なものを分かち合い、一緒の言葉で語ろうと努力する―つまり、解り合おうとする徹底的な熱意のある集団こそが、鰯の頭のようなことで道に迷い、道を異にし、とうとう絶滅収容所を作り合うのだ。[…]しかも出発点は純粋すぎる善意である。[…](その孤島、本文より)

第三勢力であるおシマさんは一応の中立派であり、その下に身を寄せたクラリネット組は、おシマさんから「島に飛ばされてきた13人全員が団結して謎を解くことができれば、扉が開くと思う。異様だが合理的でルールのある世界だから」(超要約)と言葉をかけられ、主人公・中島友梨が、この島の謎と格闘することになる。

『その孤島』は終始、団結の必要性とその難しさについて言及し続ける。〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉と問い続ける古野の作品では、相互理解の難しさが常に突き付けられる。複雑性が排され、現実世界とは異なる「合理的な」世界だからこそ、その難しさが言い訳できず剥き出しになる。『その孤島』終盤では、友梨は次のように問われる。

ヒトは道に迷う。最初から一緒の道をゆけることは、実は滅多にない。[…]そして最後まで、その道が重なることは、ないかも知れない。[…]こんな単純な仕掛けの島においてさえ、ヒトは殺し合えてしまうんだ。これから友梨が帰るのは、もっともっと複雑で、もっともっと残酷な世界―[…]どうやったら一緒の道に帰れる?(その孤島、本文より)

単純で合理的な異世界ですら争いが起こるのだから、複雑系の現実世界ではもっと困難、それでも我々は他者と相互理解は可能なのだろうか。古野が『その孤島』を通じて〈ヒトとヒトは分かり合えるのか〉というテーマから引き摺り出した問いである。

多くの人々は、互いに分かり合えると信じている。だからこそ、明確に仲間を見分ける方法として友敵理論を用いたりする。全員が友になれば相互理解できたことになり、そのためには敵を排除してもよい、という考えに陥っていくのだろう。分かり合える、ということはあくまでフィクションであり、約束でしかない。フィクションだから、エビデンスに基づくようなものでもないし、極論ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね」に対して「そうです、わたしの感想です」と返せる以上のものではない。だからこそ、分かり合えない、というところから一緒の道を歩くためにどうすればいいか、を考えていく必要がある。言葉にすれば簡単なことではあるが、古野まほろは『その孤島』という一つの作品で、約束から成立する世界をひとつ作った上で、言葉を尽くしているのだ。

もちろん、この作品のみならず、個人と世界、子供と大人、自分と他人、天使と悪魔、人間と人外、探偵と犯人、様々な位相で対になる存在同士の対話を古野は書いてきた。そもそも本格探偵小説、特に読者への挑戦状が入るものは作品がフェアに解けるものであることを、作者と読者の間で約束するジャンルである。もちろん、客観的に再現性のある謎であるとは限らない。作者は読者を、読者は作者を信じて、謎解きに挑むのだ。

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追記2022/10/1、古野まほろの新刊『侵略少女 EXILgirls』の帯文と公式HPの著者コメントから、本作が商業作家古野まほろの最終作品になるのではないか、と推測がインターネットを飛び交った。というのも、帯文には絶筆の文字、著者コメントには「記憶障害を発症」「前日に書いたことを記憶できない」という言葉があったからである。『侵略少女』のあとがき:自跋(じばつ)にて新型コロナウイルス感染症の後遺症による記憶障害であることが告白された。最新作の執筆はその記憶障害の影響をダイレクトに受けており、敷いた伏線などをデータ的に管理しているものの、過去の自分がどのように考えたのかわからず、未来の自分自身を信頼できなくなりつつあるなかで、奇跡的に書き終えたと述べられている。現在、受注している作品が複数あることから、著述活動は続けるものの、それらが書き終えられるかについては神の領分だとのことである。すなわち、『侵略少女』が最終作品になる可能性がある、ということだった。

古野まほろ作品における「病(やまい)」については、『天帝のはしたなき果実』に始まり、多くの作品で様々なかたちで登場する。作家自身の病に重ねられているとおぼしきものもあれば、エボラ出血熱など全く別なものも扱われている。また、『果実』において、”人類最古の病”というフレーズがさりげない日常会話のなかで出てくる。病に冒されてるキャラクターは主人公に限らない。時に犯人が、被害者が、病の当事者のこともある。すなわち病は立場関係なく人々に襲い掛かってくる。であれば「病」こそが古野まほろが問い続けているものの答えに繋がるのではないだろうか。健康主義が跋扈しワクチン接種や健康的な生活習慣が正しさと接続される現在に述べきれることかはわからず、キャラクターだけでなく、作者も読者も病に冒されることがありセンシティブな部分に踏み込むことから、安直な議論は難しいだろう。それでも、いずれ「病」をテーマにして、古野まほろについて考えたいと思う。

@1236dominion
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