相模川のほとり

かめやす
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公開:2026/6/30

「ヤナ二時から打ち合わせって言ってなかった?」

「今出る、今出る今出る」

遠野が一緒に住んでいる後輩――柳ヶ瀬がドタバタと室内を走り回って鞄のほうへ向かう。気をつけろよと声をかける間もなく、次の瞬間に柳ヶ瀬は脱ぎ捨ててあった靴下を踏んでつんのめった。

「うわーーー!!! 片付けとけよもう」

「お前だろそこに脱いで捨てたの」

「あーーーもうごめん、片付ける後で片付けるから許して」

踏んだ靴下をスルーして廊下に向かう背中に、遠野は声をかけた。

「おいって。鍵持った? 俺も後で出かけるから」

「え? 鍵? ちょっと待って待って、どこどこ」

鞄の中をごそごそやりながら、着ているパーカーのポケットにも手を突っ込む。

「あっっった!」

「待った」

髪の毛ボサボサだなと思いながら、遠野は柳ヶ瀬の側に寄ると、髪を撫で付けてやる。少し柳ヶ瀬の目がとろんとなる。雨に濡れた犬のようだ。

「どうすんだこれ」

「もうどうにもなんない、今日はいつもの担当さんだから平気、だと思う」

「あのなあ」

湿気で爆発した頭をそのままに、柳ヶ瀬はドアへ向かった。

「気をつけろよ」

「うん! 行ってきます」

勢いよく外に飛び出した柳ヶ瀬の廊下を走る足音が遠ざかっていくのを確かめると、遠野は玄関まで歩いていって鍵を閉めた。

嵐が過ぎ去った後のように散乱している衣類を拾って、洗濯機の中へ放り込んだ。飲みかけのコーヒーを流しに捨てると、シンクにマグカップを置く。テーブルの上には仕事で使う書類が置きっぱなしになっている。柳ヶ瀬は慌て始めると何もかも散らかすので、最初のうちは大変だった。困った時におろおろしてこっちを見てくる表情が好きで結局許してしまうし、フォローしてしまう。面と向かって言うのは気恥ずかしいから自分から特に何か言うことはないけれど。

でもそんなの今更だ。

柳ヶ瀬は実家のある小田原から厚木に住む遠野のところへ越してきた。いわゆる同棲をしていた。

ほとんどの取引先は新宿区のくせに、小田急線沿いなら何とかなると言って都心から離れたこんなところに住んでいる。

俺先輩と住みたくて、ダメだったら言ってくださいね俺自分で住む場所なんとかするから――そんなことを色々言っていたけれど、大体聞き流してじゃあ一緒に住もうかと言ったら物凄く嬉しそうな顔をしてくれた。

それがもう二年も前。

御幸の浜でタコに襲われたのは七年以上前の話で、たまに実家に帰ってもあの海岸にはあれから一度も行っていない。行くと柳ヶ瀬がナーバスになるのが分かりきっているから。

遠野は水槽の小さなフグ――アベニーパファーに餌をやると、携帯をつかんでリュックに放り込み、自分も外に出た。空気が湿っていて、ねっとりと重い。

そして部屋にはしばらく誰もいなくなった。

タコは下水道を通ってどこにでも現れるようになったから、排水口のトラップはしっかり嵌めておかないといけない。柳ヶ瀬は家にタコが侵入するのを恐れてしょっちゅうパイプの洗浄液を使うので、やりすぎると配管が傷むと遠野が言ったら、拗ねてつまらない喧嘩になった。

「先輩が攫われるくらいならパイプ腐らせたほうがマシでしょ。俺金払うんで」

「そう言う問題じゃないって」

そんな言い合いをした。

相模川をタコが遡上して市街地まで侵入したというニュースも、近所の用水池にタコが出たなんてエリアメールももはや日常茶飯事だった。タコは不審者と一緒だった。人々の感覚は麻痺していた。

タコとの共生なんて叶わぬ夢を見ている人も増えた。侵食しているのはどっちの方なんだろう? 境界線はなくなっていく一方だった。屋外プールではタコが学童を攫う事故も起こり、学校では夏のプールは当面中止になった。

「先輩? まだ帰ってないのかな」

家に帰ってくると部屋の中は暗かった。遠野はたまにどこかへふらりと出かけていつ帰ってくるのか分からない時がある。遠野の部屋にはいつも何かの原稿や台本やなんやらが山積みになっているから、息抜きをしに出かけているんだと思って、いつも柳ヶ瀬は行き先を聞かない。

冷蔵庫にあったベーコンとキャベツを使って、適当に炒めた。それだけだと足りなくて別にパスタを茹でて、ストックしてあったパスタソースを適当にかけた。

ぼんやりしたまま夕飯を食べても、まだ遠野が帰ってこないのが気になって何を食べているのかよく分からなかった。一人きりで家にいると、遠野のことを無性に抱きたくて仕方がなくなる。使い古したボイスレコーダーがテーブルの上に転がっているけれど、柳ヶ瀬は自分で使った記憶がない。

御幸の浜で起きた事故のことを振り返ってみても、あの時の自分には異変に気づく余裕はなかった。ただ遠野が無事なままいてくれたことに安心していた。

ほんとは無事じゃなかったのかもしれない。

遠野の笑った表情も、自分のことを見つめる目も、少しずつ遠ざかっていくような気がした。冷たいグラスの底に沈んだシロップのように、身体がだるかった。

「とりあえず寝とくか」

こういう時に限って悪い夢を見そうな気がする。この前なんて先輩がオオサンショウウオになってた。鴨川ってどこなんだ。鴨川まで行ってしまった先輩を迎えに俺はわざわざ京都まで行った。まじでやばかった。

「ヤナ、ここでお別れだよ。今まで俺の側にいてくれてありがとう」

「なんで? 俺まだ離れたくない」

「そしたらさ、ヤナはここまで来れる?」

そう言いながら先輩が川の半ばまで身体を沈めていく。

オオサンショウウオ先輩は流れに逆らうように腹這いになって、こっちを見ている。

「先輩が俺の側から、いなくなる……」

俺は川の中に入っていって、浅瀬にしゃがんで流れの中にいる先輩を見下ろした。

「だめ。家に帰りましょ? 俺らの二人で住んでる家に」

「じゃあここまで来て。俺のこと抱いて。ヤナ」

先輩は更にさらに川の中に入っていく。押し流されながら、先輩のぬるぬるに濡れた身体に俺は手を伸ばした。

ほとんどしがみつくような形で、必死に捕まえようとしていた。流される。俺と先輩は二人で流されながら、水の中に沈んでいった。

「オオサンショウウオって、岐阜より西に生息してるんですよ」

相模川にオオサンショウウオが住めるわけねえだろ。暴走族がはしゃぐから相模川の水は汚ねえんだ。でも東京湾に比べたら百倍マシかもしれない。

鴨川。何て遠いんだ。もう来てやらない。俺は内心そう思っていた。

「ばれちゃったか。俺がオオサンショウウオだって」

「とっとと帰りましょう、もう、もう俺を試さないでよ」

「うん。俺ね、ヤナになら何されてもいいって思ってるよ」

――自分の身体が少しずつ変化しているのがわかる。

でもこのことはヤナには話せない。

「……ただいま」

「あ……おかえりなさい」

「寝てた?」

「うん……夕飯食べてたんだけど」

「寝ちゃってたか。置いといていいよ」

「先輩……」

「ん? どした」

「先輩、今日なんか……すごく、可愛い」

「なんだよ急に」

俺はマグカップを片付けようとしている先輩を見ていた。先輩の手に、遠慮がちに指先を触れさせた。

「ヤナ?」

俺は身体を起こすと先輩を抱きしめた。

耳元に囁くように息を吐くと、先輩は身体を震わせて息を吐いた。

「いなくならないでくださいね」

「なんだよ……」

「なんか、そんな気がしたから」

「また怖い夢見てたのか?」

「それもなくはないけど、なんかその、最近いつも帰りが遅かったから」

妙な間があった。俺はああついにこの時が来たんだなと、そう思った。

「あのさ、ヤナ。もしもだけど」

黙ったままのろのろ頷く。

「もしさ、俺がいつの間にか俺じゃない何かと入れ替わってたとしたら……ヤナは気づくのかなって」

「先輩」

俺は先輩の顔を見つめた。握りしめた手を親指でなぞると、先輩の肌が軽く震えるのを感じた。身体が熱くなった。先輩が息を吸うのがわかった。

「ヤナ。見て」

「え」

「……俺のこと、見て。俺の声聞いて。いつもと違う?」

「……違う、かもしんない」

俺は先輩の身体をしっかりと抱き寄せた。さっきから自分の中の衝動を抑えつけるのに精一杯だったけど、視界には先輩の不安げな表情と、優しい匂いのするいつもの先輩の身体があった。

何も言わずにそっとキスをすると、先輩の舌から血の味によく似た潮の香りがした。

「……魚だ。先輩、魚になった」

夢じゃなかったのか。正夢だったんだ。

「先輩、オオサンショウウオだったんですか?」

「それはちょっと、違うけど。大体オオサンショウウオって魚じゃなくね?」

先輩。先輩は。

七年前に御幸の浜でタコに襲われてから、少しずつ変わってたんだ。

俺が目を上げると、先輩の人差し指が銃口のようになって、俺の額に触れた。

俺は目を閉じた。溢れ出る潮の匂いがして、次の瞬間、俺の鼻からゆっくり血が垂れてきた。俺は咳き込んだ。

俺は床にゆっくりと倒れた。先輩が俺のことを抱きしめてくれた。俺は胸の奥がゴロゴロするのが耐えられなくて荒い息を吐いた。

「ヤナ」

「せん、ぱい……すごく、かわいい」

先輩の肩に触れて、指を這わせた。とろんとした熱っぽい目をした先輩が、俺の視界いっぱいに広がる。抱きたい。

先輩に抱きしめられて、俺は恍惚となって目を閉じた。喉の奥が粘ついて血の味で湿り始めていたけれど、もう苦しくはなかった。

「お、れ……しぬならせんぱいの腕の中で、死にたいって……おもって、ました」

欲望を吐き散らしながら生きてきた俺の半生が、すべて包み込まれていくような気がした。

「ヤナ、俺の声、聞いて」

俺は頷く。

「ここが良い?」

また頷く。

先輩に胸を撫でられて、悪夢に取り憑かれていた日々を思い出した。俺は先輩の手に指を這わせて、目を開けた。わりあいしっかりした声が出て、何故だか安心した。

「俺の先輩から、離れて……もう苦しめないでくれる? 先輩のこと」

先輩の目の奥が濃い黄色になっていた。人間の虹彩とは違う形をしていた。俺は先輩の手を握りしめていた。

「行くならさっさと行けよ、なあ……」

「ヤナ」

先輩の声帯が震えて、俺の名前を呼んだ。

「一人にさせてごめんね」

先輩の身体が重心を失って俺の方に倒れ込んでくる。俺は支えきれなくてそのまま先輩の身体に押しつぶされるがままになった。

折り重なった二人の身体の側を、薄羽陽炎の黒い影がひらひらと舞い上がって、流れていった。廊下を滑るように通り過ぎて、壁の向こう側に消えた。

今までのやりとりが何千万分の一かの走馬灯に凝縮されて、二人の間に流れていった。果てしのない相模川の河口――三川合流地点のように。

夏にはあそこで花火が上がる。いつもは混むから行かないけれど、今度の夏は一緒に行きたいな。

そう思いながら、俺はまた咳き込んだ。次の瞬間、目を開けた先輩の目の色は、元の薄い茶色に戻っていた。

「おかえり」

俺の、俺の先輩。