御幸の浜の化け蛸

かめやす
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公開:2026/6/1

突然だけど、日本は島国で、周りを海に囲まれている。ここのところ毎年気温が上がりつづけて、なんだかよくわからないけど海洋生物が巨大化するようになってしまった。

数十年前は山の中からクマが出てきて、人里まで降りてきて人を襲うようになったって言われてたらしいけど……

今は熱海とか小田原のあたりでも海からタコが上がってきて、人を襲うようになった。だから夏至を過ぎたら海に近づくなって、そう言われて育ったんだけど。

しかしその夏、俺はタコなんか関係ないくらい先輩に恋をしていた。

東京の人は夏にどこでデートをするのか知らないけど、上野の美術館とか行くのかな。

昔は動物園とかあったらしい。この暑さじゃ、炎天下の屋外で動物なんて飼えるわけがない。何言ってんだって感じだ。とっくに廃墟になった上野の動物園、あの辺は今はギャングが闊歩してるらしい。

俺は小田原で生まれ育った。駅から海も近い。このあたりでは小田原城を通り過ぎて、海まで歩くのがお決まりのデートコースだけど、たまにおじさんが犬を連れて散歩してる。夏の砂浜は熱いから、夕方か早朝だけどね。

海の向こうに太陽が昇って、空が薄い青色になってくる頃、俺は先輩と二人で浜辺を散歩していた。まだ少し薄暗くて、自分たちの他には誰もいないのをいいことに、先輩はこっそり手を伸ばして、俺と手を繋いでくれた。

俺は指先から背中まで電流が走ったようになり、たちまち有頂天になった。

「たまにはいいよな。学校じゃあんまりこういうこと、できないし」

俺は手のひらに照れた先輩の指先を感じながら、早朝の潮風に吹かれていた。波はかすかに揺れて、遠くの海は深い青色だった。

「はー、手繋いだだけで、駄目ですもう俺」

「何言ってんだよ」

先輩が笑った。少し高めの、明るい声。俺は立ち止まると先輩に向き直って、先輩の肩を両手でそっと掴んだ。目を丸くした先輩が軽く顎を上げて、俺のことを見た。

「やっぱ好きです、先輩のこと」

勢い余ってそう言ってしまってから、あ、これはキスするな、と思った。先輩がふっと笑って、目を閉じた。今日こそはやるぞやるぞ俺、俺は絶対にやる、決めてみせる。そう思って俺は先輩を抱きしめて夢ならば覚めるなと願いながら、キスをしようとした――その時。

海面が波打って、浜辺に向かって黒い影が現れた。俺は背中に触れる先輩の指先を感じながら夢心地になっていたから、周りで何が起こっているかなんて、気にもしていなかった。

水面から現れた触手が、俺の脳みその空白地帯を突き破って、先輩の足を攫った。先輩が足を取られて膝をつくのを、咄嗟に身体を掴んで引き留めようとした。俺の身体は砂の上で引きずられ、顔まで砂まみれになった。俺は砂浜に唾を吐きながら、目元を拭ってどうにか顔を上げた。先輩は巨大な幾本もの触手に包まれるように、四肢を投げ出していた。

「先輩!!!!!」

いよいよ黒い影の本体が砂浜に顔を出した。ばかでかいタコだった。俺は目の前が暗くなるのを感じながら、絶叫した。

「あーーーっ!!! タコ!!!!!」

タコは昔の一円玉を傾けたみたいな目できょとんとこちらを見ると、ニヤリと笑ったように見えた。人の恋路を邪魔するなんて、とんでもないタコ野郎だ。俺は身体の痛みも忘れて立ち上がると、タコに向かって突進した。

「先輩を離せっ!!!」

タコは先輩の身体をがっしりと触手で掴むと、その制服の中に触手を侵入させ始めた。先輩が聞いたこともないような声で苦しそうに息を吐いた。やめろ……やめてくれ……!

俺はタコの弾んだ肉体を素手でポカポカと殴った。タコは先輩に絡みついたままじっと動かず、こちらを気に留めようともしない。

「あっ……あ……そこ駄目っ、駄目」

先輩の尻に押し付けられた触手がずる……と鈍い音を立てて、股の間を這っていく。俺はその姿態に息を呑んだ。このままでは先輩がタコに蹂躙されてしまう!

逃れようとして先輩が身を捩ると、吸盤が吸い付くように制服の中の身体を締め付けたのか、詰まった艶かしい声をあげて、先輩は身体をのけぞらせた。

ぬるぬるしたタコの腕なのか足なのか、多分足だろうと思いながら俺は手当たり次第に引っ掴んだが、粘液が手のひらにまとわりついて滑ってしまう。

「せんぱぁい……こいつ、俺一人じゃ難しいかも」

半泣きになりながらも俺はどうにか助けようと今度は後ろに回り、抱きつくようにして先輩の膝を後ろから掴み、絡まるタコの足を払おうとした。

「あれっ……? ちょっと、先輩!? くそっ、こいつ……!」

「あ、その体勢やばい、やっ、ひ……?!」

俺はぐったりと寄りかかってきた先輩の汗だくの額を拭ってあげながら、なおもタコ足と格闘する。よくも先輩をあられもない姿にしやがって……酢蛸にするぞ、この野郎!

ぐったりした先輩は俺の肩に頭を寄せると、息も絶え絶え、耳元に囁いた。

「お前も巻き込まれるから、離れろって」

「いや……なんかこのタコ? こいつ、俺には興味ないみたいで」

「人を、呼んできて、助けを……」

「でも……! 俺がいない間に、こいつが、先輩を……!」

俺は泣きながら先輩に必死にしがみついて、タコを引き剥がそうとした。それから、声の限りに砂浜に向かって咆哮した。

「誰かぁっ!!!!! 助けてぇっ!!!!!」

虚しくこだました俺の叫びは、海風に乗って消えた。俺は先輩を後ろから抱きしめたまま、先輩が喘ぐ声をずっと聞いていた。タコは何故か俺には触れずに、ずっと先輩の身体に触手を這わせていた。

「あっ……もう、もうらめっ、いっ、いッ……」

「先輩……うぅ……」

「おーーーい!!! そこの学生!!!」

俺が項垂れて先輩の蕩け切った顔を撫でていると、砂浜の向こうから声がして、駆け寄ってくる人影が見えた。オレンジ色のベストを着た、ライフセーバーのお兄さんだ。ちょうど朝のパトロール中だったようだ。

お兄さんは砂を蹴りながら駆け寄ってくると、無線で連絡を取りながら俺たちに声をかけた。

「大丈夫? 怪我はしていない?」

「このタコが、先輩から離れてくれなくて……」

「もう少しだけ我慢していて。すぐに助けるから」

お兄さんはそう言うと、タコが警戒して持ち上げた触手の先に、救護キットの中から取り出したアンプルをあっという間に打ち込んだ。アンプル内の薬液は即効性だったのか、タコはぶるるるるるると身体を震わせると、脱力して先輩に絡みつかせている触手を解いて、波打ち際に後退し始めた。

先輩は解放された瞬間に後ろに倒れ込み、俺は先輩の身体を受け止めた。先輩は虚ろな目をして、空を見ている。

「この個体、最近このあたりに決まった時間に現れて、こうして人を襲っていたんだ」

「あの……このタコは……」

「しばらくは痺れて動かない。君たちはここから離れて、あの岩陰に避難してほしい。手を貸すから、その子を連れて向こうに行こう」

俺はお兄さんと二人で先輩を岩のところに連れて行くと、岩陰になった砂浜に先輩を座らせた。

「救護班に連絡したから、あと10分くらいで来てくれる。君はこの子の後輩かな」

「はい。そうです……」

「親御さんに連絡は取れるかな。状況は僕から説明する」

俺はのろのろと頷いた。先輩の手のひらが俺の身体に触れて、俺は先輩の手を握りしめた。

「君がいてくれたおかげで、この子は助かったんだ。ありがとうな」

「いえ……そんな……」

「逃げずによく頑張った。応援が到着したみたいだから、状況を説明してくる。救護班が来るまで少しここで待っていてくれる?」

そう言ってお兄さんは立ち上がると、他のライフセーバーのところへ駆け戻っていった。

潮風が吹いて、遠くで人の話す声がしている。俺は呆然としたまま先輩の手を握りしめていた。

「なあ……」

声をかけられて顔を上げると、先輩の顔が近くにあった。先輩は首を少し傾けて、俺にキスをした。先輩の舌が上顎を撫でて、舌が潜り込んでくる。俺は目を閉じると、先輩の肩を抱いた。

「タコ……すげえ怖かった」

先輩の目は潤んでいた。

「いっぱい触られて……」

言葉が途切れると、先輩は俯いた。先輩が喘いだときの切なげな声が、俺を見つめてタコに撫で回されていた先輩の表情が、俺の脳内に万華鏡のようにぐるぐるとひらめいた。

「俺めっちゃ悔しかったです。タコに先輩を取られて」

「何言ってんだよ。アホなやつ」

先輩は苦笑すると、俺の頭をくしゃ、と撫でた。

砂浜でキスをした先輩の舌は、砂の味がした。俺の顔は砂で汚れていたし、タコに蹂躙された先輩の艶めかしさは、学生の俺にはあまりに刺激が強かった。俺はタコに襲われる先輩の夢にうなされて、あるいは妄想して、眠れない夜を何日も過ごした。

その夏、俺と先輩が歩いた浜辺には、遊泳禁止の立て看板が出た。あれから俺は先輩をはじめて抱いたけど、あのタコ野郎に自分が負けているような気がして、はじめのうちは全然うまく行かなかった。

日本は島国で、周りを海に囲まれている。海には巨大なタコが出て人を襲うから、現代人は海で泳げない。

そして俺は、あの時のタコをいまだに許していない。