「布教」が苦手な人間の頭の中を見てみよう

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布教。それは一般的に、「教理を教え広めること。特に、宗教を一般的に広め伝えること。伝導。」(出典 精選版 日本国語大辞典)という意味を持つ単語だ。いつ頃からかは分からないがオタク文化圏で「自分の好きなものを他者に広め伝えること」といった文脈を持ち、今日ではオタク文化圏そのものが広義になってきたのもあり様々なコミュニティで一般的に使われるようになっているように思われる。

この「布教」にどうも苦手意識がある。どうして苦手なのだろうか、をコンビニからの帰路ぼんやりと考えていたのだが言葉にできそうな気がしたので書き出して深掘りしていこうと思う。

他者の嗜好に関心がない

†我は他の種族との馴れ合いを好まぬ†……という意味合いも微かに根底にはあるが、少々それだとズレている。

ここでの他者とは、自分と関わりが薄い人間のことを指す。例えばSNSでバズって流れてくる「XXが好きな人は見て欲しい!」的な文脈のものは、他者からの布教と言える。XXが好きな人、という共通項は自分にとっては関わりを深める材料にあまりならないのだ。どちらかと言えば、関わりがあり気が合いそうな人をさらに好きになる要素として「XXが好き」が影響してくる。

この考え方は、何だかSNSの使い方と相関性が高そうだなと感じた。「XXが好き」という共通項(クラスターと呼ばれたりする)で繋がりを持ち人と関わる、そういったスタンスでSNSを使う人は一定数存在する。自分の場合は「XXが好き」のXXを見るためにSNSを使うことはある。ただ、見るためだけで双方向の交流を求めてはいないため基本的にROMするだけのアカウントを使う。交流は交流で別のアカウントを持っており、そのアカウントは元々交流がある人の様子を覗き、気が向いたら交流するといった用途に使っている。

ちょっと脱線してしまったが、要は関わりが薄い人の嗜好には関心が薄いという話だ。

若干の例外はあり、自分の片割れかと思うくらいに嗜好が似通った人がいた場合には関心が生まれる。同じような食べ物を好む人が「この新商品おいしかった!」と言っていたら多分おいしいんだろうな〜食べてみたいな〜となるようなイメージだ。

「布教」に双方向のやり取りが生じるイメージがあり、それが苦手

上記でも少し話した「交流」が関わってくるのだが、「布教」という言葉には双方向のやり取りが生じるイメージがある。

「布教」をされたら布教されたものを見たり読んだりし、何らかのフィードバックを返す必要があるように感じてしまう。もちろん相手が「布教」後にどうしようが自由だと考えている人も多いと思うが、自分は何らかの反応を返すことを求められているように感じてしまうのだ。

どちらかというと自分の感じ方に依るものだと思うが、自分は明確に自分に向けて投げられたボールは相手に返すというターンを持って終わりにしたいと考える人間だ。Slackも自分の返信やリアクションを持って終了させ、双方向に会話をしたという体裁を取るようにしている。自分に向けてボールを投げる、ということは自分にコミュニケーションを求めていると捉えているのだ。そのコミュニケーションには可能な限り応えたい。(勿論コミュニケーションが取りづらいファールボールなどもあるので、そう言った場合はボールを返せないダメージを負いつつ敬遠することはある)

ここでも若干の例外はあり、気心知れた相手(コミュニケーションを常にとり続ける必要に駆られない、互いにボールを投げるだけのやり取りも楽しめる友人)に関してはあまり気にならない。ボールを返さないことで互いにストレスが発生しなければ何を投げこまれても気にならないからだろう。

コミュニケーションの一環として使われる「布教」が合わない

つらつらと書いてきて気づいたのだが、多分「コミュニケーション」そのものが苦手なのが一番の根底にありそうだ。やースッキリ。そっか、布教ってコミュニケーションの手段になると苦手なんだな。たとえすごく好きそうなものを布教されたとしても、上記のような条件に当てはまってしまうとそのもの自体が苦手になってしまいがちだ。何だか勿体ないとは思うが、仕方ない。

なら「プレゼンテーション」はどうだろう?と思ったが、質疑応答フェーズというコミュニケーションが入ると多分苦手になる。コミュニケーションが苦手だと結構生きづらいものだ。

でもこれが自分で、こうやって生きてきたのだ。毎日それなりに楽しく過ごしているし、後悔はない。これでいいのだろう、自分は。

@273_372
徒然って「ドッグラン」の象形文字なのかもしれない