私は病気だったらしい。病名は「乖離症」。
これは、考えてないものしか作れない病気。どれだけ作りたいものを想像をしても、手を動かすときには想像を無視して無意識が働いてしまう。
これは、理想と現実のギャップに苦しんでるわけじゃない。理想のものを作れる状況が整ったうえで、「考える側のわたし」と「作る側のわたし」の意思疎通が全くできない状態になる。
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例えば絵を描くとき、大体の人は脳内に大まかな構図があるはず。
そして、これはうっすらした想像。だから、手元でペンを動かして、実際に描けた部分を見て、想像や感性と照らし合わせて、想像をより解像度の高いものにしていく。満足の行くまでこれを繰り返すことで、絵は完成する。これは絵に限らず、文章だろうと、音楽だろうと、ゲームだろうと同じ。
この流れを言い替えると、「作る側のわたし」は、「考える側のわたし」の構想を見たり、フィードバックを求めることで想像のものを具現化している。
でももし、何らかの原因で、「作る側のわたし」が「考える側のわたし」の言うことを聞いてくれなかったら何が起こるか。
そう、無意識に「考えてないもの」が出来上がる。
これが、私が昔からずっと苦しんでいる病の話。しかも、無意識に作られたものが高い評価を受けたりしてきたので、成功体験が無意識の部分に集まってしまった。だから、ロジカルに考えて結果を出すことができず、奇跡を起こすことしかできない。
(これは、直感とはまた違うものだと思う。直感は「言語化できてない意識」なのに対して、この病では無意識でものが出来上がるから。)
一方「考える側のわたし」は、現実に干渉できない場所に閉じ込められ、ひたすらに想像を蓄積している。これによる影響で、過度な洞察を発揮したり、想像上の私が生きていたり、現実に興味が湧かなかったりしている。
一見、人間関係が上手く行かなくなりそうだけど、そこは奇跡でカバーされてるらしい。あとはこの凝縮された想像力を、現実に放つことが出来たらなあ。
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なんで、「作る側のわたし」は「考える側のわたし」が見えないんだろう。
ノイズでもあるのかな。それとも、「考える側のわたし」の想像が抽象的すぎるとか。幼少期に戻れば繋がると思ったけど、考えたらあの頃からこうだったし。
「考える側のわたし」が、想像したものを独占しようとして「作る側のわたし」に渡すのを拒んでいる気もする。
「作る側のわたし」が、「考える側のわたし」が勝手に生み出した空想上の存在からの視線を感じ、それを恐れて無意識空間へ逃げている気もしている。
しかも面白いのは、あの二人の連携ができているケースもたまにあること。特に、ロジックみたいな抽象度の高い概念を扱っているときはよく見られる。
まだまだ、「作る側のわたし」がどんなときに何をするのか、観察する必要がありそう。
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このように、この病は私自身によって少しずつ解明されつつある。受け入れて、試行錯誤して、解釈して、なんとかここまでたどり着いた。
そしていつか、あの二人を繋いだ世界を見てみたい。この先も色んなことを試して、どこかにある通り道を見つけていく。きっと今までにない、すごい現象が起きる。