読書感想 - 銀河鉄道の父

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公開:2025/11/15

宮沢賢治には並々ならぬ関心と愛着がある。母がなぜだか宮沢賢治のファンなのだ。本なんて童話の「注文の多い料理店」くらいしか知らないはずなのに。どこで知ったのか。同郷というわけでもない。とはいえ母は東北人。宗教もやや違う。母方は曹洞宗だ。父方が、宮沢賢治一家の浄土真宗大谷派である。微妙に接点がないのに、なぜああも母は宮沢賢治のファンだったのだろうか。

その問いは自分にもしたい。私も宗教家というほどではないが、曹洞宗を支持している。東北には縁がない。共通点は少ない。だが宮沢賢治が好きだ。作品も、生き方も。

そんな私がこの小説を読んで、宮沢賢治のイメージが崩れるのではないか。その恐怖はあったが杞憂であった。より好きになったと自信を持って言える。この本は学ぶところが多い。宮沢賢治のことはもちろん、父という姿についても思うところの多い小説だ。

印象に残った言葉がある。

父としての立場で印象に残ったのは以下の2つだ。

  • 子供のやることは、叱るより、不問に付す方が心の燃料がいる。

  • 我ながら愛情を我慢できない。不介入に耐えられない。父親になることがこんなに弱い人間になることとは、若い頃には夢にも思わなかった。

今私はまさに子育ての当事者である。我が息子は学校で時折問題を起こす。年端もいかぬ児童だから、最初は叱っていた。しかし、叱れば叱るほど、私の意図するところから遠く離れていくのを感じた。最近は倫理観が少し育ってきたようで、悪いことをした自覚が芽生えてきているようである。なので、できる限り不問としたいと考えている。が、できない。許すこと、不問とすることが如何に気力と勇気のいる行動か。

我が父はどうだっただろう。ブルスカに少し書いたが、父は不問にするのではなく無関心だった。娘(私の妹)一筋だった。何をやっても、何も思わなかった。ただ私が小遣いで買ったものに、私よりも先に手を出した。だから私は父が今も苦手だし嫌いだ。息子、長男としての勤めは果たすし、嫌な顔は見せないようにするつもりだ。ああ、私の父がこの小説の主役、政次郎だったらどんなに良かったか。

そう思って、私はそんな父親になれるのだろうかと不安になる。

また、この政次郎氏は仕事人としても一流であった。以下の2つのセリフがそれを印象付ける。

  • 生活というものは、するものではない。作るものだ。

  • 好きなことを仕事にするなど本末転倒も甚だしい。そんなのは謡や噺家の生き方じゃ。堅気の人間は順番が逆だ。仕事だから好きになる、それが正しい在り方だじゃい。

現代の労働観とは逆と言えるだろうが、私はこの言葉は本質をついていると考えている。このセリフから汲み取れるのは、自ら動き、掴むということであろう。何をするにも受け身ではダメなのだということを端的に表している。やらなきゃいけない仕事なのだから、それに熱中して取り組めば、自然と好きになるものだ。己の人生は、自分自身で道を切り開いて道を切り開いていくもの。そこにはマニュアルも手本もない。顔も知らぬ者のSNSのつぶやきを眺めたって、道はそこにない。

川のように流れる人生というのも、自らその川に飛び込まなければならない。主体性がなければ、何事も成し得ないということなのだ。

自分は古い人間だと思う。だが現代の、主体性のない暮らしをもてはやす風潮は賛同できない。息子にも、主体性を身につけてもらいたい。「何をやったらいいですか」ではなくて「これをやってみたいけどいいですか」という問いができるようになって欲しいと願うばかりだ。