今週も月曜日が辛いと感じた。なぜだか頭が重く熱かった。知恵熱のような感覚だった。なぜだろう。ストレスなのだろうか。
今週から、手書きノートをもっと使うようにした。といっても、仕事のメモはとりたくない。仕事のアイデアは歓迎するが、誰から電話があったのかなど書き留めたくない。なので、今まで通りアイデアノートとして活用しつつ、最大3行日記を書くことにした。1日に出来事。その日のハイライトを1行から3行でささっと書くのだ。
そして家に帰っても、ノートをそばに置いておくことにした。アイデアは全部ノートに書く。夜に日記を書いたり見直したりする。読書関係は相変わらずスマホとiPadで管理するのだが。
ノートは好きだが私は字が汚い。だから可能な部分はiPadやスマホで書いていきたい。だがノートの使用頻度は低くない。なぜなら仕事中、スマホをいじるわけにはいかないからだ。ノートに何か書いてても、誰も気にしないだろう?
最近仕事は楽しさを感じ始めた。仕事だから好きになる、という感覚である。
辛い仕事だが、どこか心の奥底で楽しんでいる自分に気づく。忙しいのは暇よりマシだ。休息を取る時間はある。家に帰れば酒で忘れられるし早めに眠れる。ジャズを聞けば静かな自分を取り戻せる。そして本を読めば、自分のできない体験を追いかける楽しみを味わえる。
だから仕事の辛い部分が、自分の中で消化され始めたのだろう。
土曜日は息子の授業参観。学習発表会という名で、見学しにきた保護者たちへクイズや図工で作ったおもちゃで遊んでもらう時間だ。息子は他の保護者に向かっても堂々と話していたし、準備や片付けも積極的だった。社会性が身についてきている。頼もしいものだ。
やはり子供は親の知らぬところで成長するものなのだ。だから、親が子供を育てるなど自惚れなのだ。親の役割は、寝床と食事と安心感の提供。これに尽きるのではないか。
日曜日には、浜松のフラワーパークへ足を伸ばした。入場料の約半額がお買い物券となる。整ってて、人の少ない大きな公園。これは散歩にもってこいだ。途中芝生のエリアでボール遊びなどをした。家族全員が楽しく過ごせた。
これも、家族といることで得られる安心感だ。家庭というシェルターを子供に与えているに過ぎないのだ。子供がどう育ち、どんな大人になるか。親がコントロールする領域ではない。あくまで子供が自発的にどうありたいかを考えれば良いのだ。別に大学進学をしなくても良い。本人が望めば、それを可能な限り叶えてやるだけで良いだろう。
明日は仕事だ。祝日は基本的に出勤日だ。明日は頑張ろう。素直にそう思えるから、今週は良い一週間だったのだと感じている。幸せな一週間だったと。