昔、人に自分が作った映像作品をこっそり見せたら「こわい」と言われた。びっくりした。
私の作品、こわいのか。言葉の向く先がホラー的な意味ではなく、「人の内側を覗いた時の恐ろしさ」だったことは理解している。じゃあ、人の内面ってこわいのか。私自身から何か内に秘める攻撃性や引っ張られてしまうような闇を感じさせてしまっているのだろうか。何かしら薄暗さを感じさせてしまうとこわいのか。暗さってこわいのか…?形作られたものになったからといって、私自身の本音や内側にある何かを覗くことってできるのだろうか。というか、本音とは?己の暗さと作品の孕む温度に鈍感だという話がしたいわけではない。いやいや、正直私の作品はこわいものではないぞ。
学生の頃、作品展示を見に来てくれた知人が、私の作品の話を聞いて泣いていた。当時の作品の出発点はとても私的な出来事からだったので、話すとしたらコンセプトというよりは経緯を説明する必要があったのだけれど、決してドラマティックに演出した内容ではなかった。それこそ本音を言えば、あなたが泣いてはいけなかった。本音なんか、本当に大事にしている芯からは外れた、もっと冷静な場所にある。
絵を見てくれる人に、「私のタイプです」と言われる度に一瞬戸惑う。好きですという言葉をなんとなしに変換して伝えてくれたんだろうと言い聞かせながら、間に受けないようにしようとする自分がいる。私にも好きになる絵の傾向はもちろんある。どうしてもやはり、消費社会の渦の中にいる事を思い知らされる。
多分この人達が見ていたものは、私の作品を鏡として見た自分の内面だったのだろう。芸術作品とはそういうものだと言われればそれまでだが、どこかいつもこの2つの矢印の噛み合わなさを感じている。この矢印は必ず向かい合うものなのだと、あまりにも当たり前の感覚として広まりすぎているのかもしれないし、みんなやっぱり「わかりたい」んだろうか。実際のところ作者の内面や人生ばかりにフォーカスするものばかりが芸術行為というのならば、つまらない。(いずれは間接的に繋がってきてしまうものではあると思う。)
コミュニケーションも同じく、本当はほとんどが破綻しているのに通じ合えているとすら幻覚を抱いてしまうのは何だろう。もしかして、他人同士互いに自分を見つめ、自分と会話しながら人生や地球における何かを確かめていく作業のことだったのかな。
犬と言葉ではなく仕草で何かが伝わり合っていると勝手に我々が信じていることと、人間同士言葉や仕草で記号的な交信をしていることはもはやほとんど同質のように思えて、ある時には涙がこぼれるほど感動し、ある時にはこれになんの意味があるのだろうと脱力してしまう。
どうしてすべてをわかろうと、わかることができると思うのか。それを追いかけることは美しく、愛と呼ぶ気持ちもわかるけれど、時折うんざりする。私が話すもの、書くもの、作るものにどうか誰も惑わされないでと思う。私の存在や作って外に手放したものはただそこに在るだけだし、あなたやあなたの思考も当たり前にそこに在って、たまたま近くにいたり、離れたりするだけ。決して突き放したいわけではなくて、存在を肯定したい。大丈夫だよ。
その距離や質量、関係性、時間経過をただじっくりと見つめる行為だけができたら。
ただ、それだけでいいのに。
そう思うけれど、本当にそうなってしまったら、人間ではなくなってしまうのだろうか。それはそれで、つまらなくなるんだろうな。