悔しくて堪らない。
よくお世話になっているお客さんの事を知りたくて、その人と近しい立場にある2人の本を読んだ。柔らかく嘘のないまなざしを向けられ続けたやりとりの日々が切り取られていた。その背後にいるお客さんの事を想像する。あの粘り強さや芯の強さ、自分自身の表現を大事にするルーツはここから繋がっているのかと納得した。
ここ数年の私はほとんど家に引きこもって、1Kの空間で完結できる範囲の世界しか見ていない。インターネットは、普段の生活圏では触れられない知見を蓄えられる事がおもしろい。幼少期から今まで、救われたことも沢山あった。しかし果たして、それはこの目で「見た」と言えるものばかりだろうか。本当に「知っている」のだろうか。安心しきっていないだろうか。学生の頃、この事でノイローゼになった苦しみの時期を忘れてしまったのか。自分があまりにも些細な事で思い詰めてしまう癖から逃げる為に、感覚を敢えて鈍くしている部分に気がつく。私はもっと強くならなければならない。
引きこもりながらも、機会があればいろんな人と話をする。相手から突然溢れる言葉に新鮮に驚き、冷静を装いながら話を聞いている事がよくある。やはり何も、本当に何もこの世界の事を知らないし、表面的にしか気付けてない。
人との関わり方も、失望されてしまわないかとか、立ち回りを上手くできるように、とかつい考えてしまっている自分が恥ずかしい。人の事をどこか疑り深く見ている。自分や近くの人を守るためとはいえ、そればかりになる事は本当に良い選択なのだろうか。嘘はつきたくない。自分の言葉は自分のものだし、それだけ責任を持ちたくてどこまで人に委ねて良いのか、今の私にはまだわからない。人に向けて発するには、まだあまりにも言葉を知らなすぎる。
今一度冷静になって、自分自身に限らず相手の言葉や表情に意識を向けた上で、自分の言葉を扱えるようになりたい。冷静に考える事はとても難しい工程だ。(改めて過去のものやこの文章を読み返してみると、私は自問自答をしすぎなので、もっと人と会話をした方が良いのではと思った笑)
今日からまたお客さんとの仕事が始まる。忙しくなるだろう。今度こそ、と始まりはじっくりと準備に時間をかける。もっと水面を跳ねるように楽しみたい。
私にはもっと自分の足で歩いて外の景色を観察して、絵を描いたり写真を撮ってみる時間が必要なのだと思う。自転車を買いに行かなきゃなあ。
足踏みばかりしていられない。