我が家のまな板の片面は、少し溶けている。
上京する際、引っ越しを手伝いに来てくれた母の「あ!」という声に目を向けると、おろしたてのまな板に、丸く溶けた痕ができていた。アツアツの鍋を置いてしまったようだ。母よ、横着と油断をしたな。新品が目の前で崩れていく小さな絶望を忘れずに、今も使っている。裏面を。母は、少し不器用のようだった。
学生の頃、母が東京に遊びにきたので、たまに行く美味しいお好み焼き屋に連れて行った。「もんじゃ食べてみたいねん」と意気揚々としていた。もんじゃは私が焼いて、お好み焼きは関西出身の母に任せた。もんじゃが二つ出来上がった。確かにお好み焼きを目指して作っていた。どうして。関西プライドはどこにいったんだよ。やはり母は不器用のようだった。
生活がとても億劫になる事が多い日々の中、呆然とスーパーの食料品売り場で立ち尽くす。何を食べれば良いのかがわからない。そして母を思い出す。突然料理にこだわってみたり(栗原はるみのな、これ作ってみてん。おいしいやろ?と言いながら)、たまにケンタッキーを買ってきてくれたり(めっちゃケンタッキー好きやねんと言いながら)、父に任せたり(食費めっちゃかかんねんでと言いながら美味しく食べていた)。素直に、家族といえど他人の生活まで当たり前に支えてくれていたことに尊敬の意ばかりになる。
母は、仕事においても不器用で、検定の会場に向かう路面・検定両者とも見事に滑りこけていた。今となっては責任者としてまとめあげているらしい。会う度に仕事現場での話を楽しそうにしている。
母は関西の街中から、熊本の知り合いも誰もいない、何なら言葉も文化も通じない名もなき山奥に嫁いだ。今の私よりも若い歳に。地元の人達からの風当たりはかなり厳しかったはずだ。高校生まで母の事を神経質でてきぱきした人だと思っていた。タンポポの綿毛のようにぱやぱや生きていた私は「339ちゃんはマクドでは絶対働けへんな」と言われ、お母さんとは別人だもんなぁ〜そうだなぁ、と当時アホのように納得していたのだが、本当は相当な苦労と努力をしたのだと今ならわかる。機械慣れしていない母のパソコンにはポストペットがいて、それを私が覚えているくらいには可愛がっていた事が、思い返せばどこか引っかかる。
ひとりで暮らすようになるまで、母のことを「母親」という生き物として認識していたことに気付く。父にも同様に。
ものを作っていると手先が器用だと勘違いされる事が多い。全員が全員そういうわけではない。というか、器用だからものを作っている人というのは少ないんじゃないか。訓練と意識の問題が大半だと思う。
私も不器用のようだ。何事においてもうまくできないしすごい頻度で何かしらやらかす。不器用通り越して物事の理解まで時間もかかるので、最初は人に勘違いされたり攻撃される事も少なくはない。人々の期待から落胆までのコントラストは激しい。私自身が人を傷つけてしまう事もある。脳は霧に包まれ、心臓は冷えて止まりそうになる。
でも、それでも、忍耐強く続ける事だけは母に似て得意のようだった。やっと最近、自分が作ったものを好きになれたり、色々な場面での楽しかった事や嬉しかった事の話をできるようになった。
そして今日、またひとつ歳を重ねた。いまや本気のアラサーまっしぐらです。どうも、正真正銘のこどおばでございます。母が同じ歳の頃、既に私は生まれている。私が小学生の頃、授業参観で母が学校に来る度にクラスメイトからお母さんかわいー 若いねーと言われていた。まもなくその歳も差し迫る。
仕事を始めてから毎年この時期はとてつもなく忙しく、今年も特別お祝いする間もなく過ぎていく。ケーキ食べてないな!そういえば。
オードリーの展示チケットを頂いていたのにどうしても行けなくなってしまったし、友達とのご飯の約束もドタキャンになってしまった。悲しい。ごめんなさい。
私が生まれた日には、家の周りに一面の菜の花が咲いていたと聞く。その風景を少しだけ想像して、莫大な量の仕事へと向かう。仕事は相変わらず難しい。
みなさま、いつも本当にありがとうございます。こういう機会がないと、周りの方々に想いを伝えられないので、誕生日は大好きです。
今年も地道に生きてみようと思います。