18歳、大学進学で上京し一人暮らしを始めた頃。それまでの自分は分厚い光に包まれていた。はじめて肉眼で周りを見渡せるようになった頃に光は消えて、気が付けば骨と肉のみが残った。
思えば、それからずっと怒っている。おいざけんなしばいたるからなボケとかうっせ〜(ハナホジ)という言葉が高頻度で浮かぶ。
自分がなぜこんなにも怒っているのかいまだにわからない。全てが健全で正しいものばかりではなく、個人的で暴力的かつしょうもないものもある。一度怒りを覚えるとはらわたが煮え繰り返って夜も眠れなくなる。いつの間にかぐっすり眠って超絶寝坊する。私もまた怒られる側の人間である。
怒りを直接創作へと昇華できない。静かに耐え忍ぶしかない。何度も試みたが、結果形作られたものを好きにはなれなかったし、可視化する事で他人に怒りの方向さえも悟られたくなかった。作り続ける原動力のひとつではある気はする。作られたものは手元でずっと可愛がる事ができる健やかなものであって欲しい。
幼少期からキャラ付けされる事が多く、その扱いに乗っかる事で楽をしていた。それを癖にしてしまった事をとても反省している。相手が望む姿でいれば川のように時間は流れていく。対立はめんどくさい。違うことを違うんですとそのまま伝える事ができない。それにより自分の首を絞めることも多かった。このままではただの突貫工事だ。
ある時、伝えてもいないのに伝わらないとほざくのは単にコミュニケーションをサボっているだけなのでは?と思い立った私は怒りを外に出してみることにした。結果「アートヤンキー」扱いをされている波動を感じ、そそくさと怒りを隠した。おい、めちゃくちゃ悪口言われとるぞ。
やはり私は怒りを伝える事が苦手なようだった。喫煙所に魂だけを送って煙草を吸いまくりながらひたすら制作に打ち込んだ。くそったれ。
こんな文章を載せてしまったらいよいよ真っ向から気難しい奴と思われ腫れ物にされて誰も関わってくれなくなり、楽しい雑談タイムがなくなって鬱病になってくたばるので少し弁解させてほしい。怒りの感情を他人にぶつけて攻撃してやろうという発想はない。ここまで書いて信じてもらえないと思うが、超平和主義だ。何も無いに越したことはない。
たまにそのあたりの感情に敏感なのか、話したこともないのに嫌ってくる人が一定数いる。そしてそれが何故か毎回伝わる。人間性のヤバさを感じ取り距離を置かれるではなく、なんかまじで嫌われている。なんとなく、嫌われる前に自分から嫌ってやろうという意識が働いている部分があるんじゃないかと思っている。その人なりの自分の守り方なんだろう。こ、こんなにも人間好きでただのアホなのにな、なんでえ!?と新鮮に驚く。私は極度の病的な遅刻魔だが、それが許せない人ならわかる。まだ待ち合わせしたことないのに!?唐突に嫌われている感情を食らうと結構落ち込むので、話したことないなら興味さえも持たないで欲しかった。良い人では無いし捻くれているし人見知りだけど、一度懐いたらめちゃくちゃ好きになっちゃうしずっと大事におもうのに。
怒りについて書くもんだから冷静に文章をまとめるのに数日かかってしまった。ここまで書いて、もしかして、私の怒りの所在ってコミュニケーションへの諦観から来ているかもしれないことに気付く。結局そうなるのかよ、という出来事を目撃する度頭を抱える。『進撃の巨人』の作中、ある人物の「俺達はまだ話し合ってない」というセリフがずっと心に居座る。結果がどうであれ、もっと対話や思考を重ねる事ができていれば。体力と気力と時間があれば。悔しくて腹が立ってばかりいる。
今、光は身体を包むほどの大きさはないが、手元で微かに、熱く揺らめいている。これからも苦しみや怒りから解放されることはないかもしれない。そもそも人間としての存在がつらい。キモすぎる。それでも、生きることや作ることを諦めきれない。大事なものは自分の手のひらで、しっかりと握りしめる。
いつか絶対しばいたるからな。(なにを?)