小学生の頃、同級生の名前を色で区別していた。「たくみ」が2人いて苗字の「うえむら」を濃い青で、「いわなが」を淡い水色で覚えていた。
これを自覚したのは大学生になってからだ。共感覚というらしい。格好のお昼寝タイムと化した暗く広い講義室にこの映像作品が流れた瞬間、眠気も吹っ飛ぶほど脳に電撃が走った。カタカナを認識したり覚える事が困難な私が、この数年忘れもしなかった作家。オスカーフィッシンガー。
音やリズムに色や形を感じ、それを映像化したというので有名な作品だ。ギリ10代くらいの若かりし頃の私は、映像(もしくはイメージ)について考えすぎに加え人間の話す事全て嘘に思えてきてしまい不眠とノイローゼ気味になっていて、この作品との出会いを皮切りに打開できたとも言える。確か某美術館でキュレーションをされている方の授業。あの方の授業は全て面白かった。ありがとうございました。
あまりにも身に覚えがある。好きな音楽を聴く時、まさにこのような映像が頭の中で流れている。特に石野卓球さんやPerfumeの曲に現れやすい。彼らの音楽には空間があり、様々な形と色をした何かがそこで踊りまくっている。ダンスフロアで踊ることなど、そもそも空間を想定して打ち込まれているからなのか。他のアーティストでも同様に、声までも一つの素材となって空間が作られる。それぞれの形や色達が気持ちよく存在していた時、良い曲だなあとなる事が多い。逆に言うと、空間を想像しにくかったり、乱雑になっていたりすると聴くのが辛い。
音楽だけでなく、人やその他の存在そのものでも同じ感覚・考え方で捉える事がよくある。それはある種の逃避でもあるような気もするが、自覚しているかしていないかの話で人間誰しも自然に行っているのではないかと思う。
学生の頃はその考え方をベースにインスタレーションを作ってトライアンドエラーによる考え事をしていた。
昨年、その簡易版としてたまにSNSに投稿していた「観測した庭」は、タイムラインにいる人(実際にもしくは文字情報のみでも交流がある人)の事を物質・空間として捉えなおして、それを文字に起こしてみるという遊びだった。夏から年末にかけて私生活に体力をほとんど持って行かれて現在011で休止中だが、あの遊びをしているととても心が安らぐのでまた今年も少しずつやりたいな。今、引き続きSNSに載せながら続けるか、しずかなインターネットに何枚かごとに載せていくか、場所について悩み中…。
そういえば、これもまた遥か遠い昔となってしまった成人式の同窓会で久々に再会した「たくみ」に、当時のその話をしてみるとキモがられたので、生意気にキモがるなボケがと蹴りを入れてやった。といいつつおそらく最もキモいのはTPOをわきまえない私です。肝に銘じます。