成仏する幽霊たちと、最も大きな幽霊「怪物」が消えるまでの話

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公開:2025/6/26

この話を読む前に、「限界的練習」について少し調べておくと、内容が伝わりやすいかもしれない。あと、思ったよりELLEGARDENのMonsterだったかもしれない。

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この数年で、私の人生の課題、あるいは生きているうちにはわからないかもしれないと思っていたいくつかの課題たちの構造がわかった。構造がわかったということは、部分的な解決が見えた、ということを意味する。たとえば。子供になる現象。私の言葉が全く通じないパターン。私のチームのメンバーのほぼ唯一の負けパターン。教育とはなにか。私がなぜ人を成長させられなかったか。成長させるにはどうすればよかったか。ずっと昔からの課題や謎、幽霊とでも言うのだろうか、そうした幽霊たちが立て続けに成仏している。8年引きずっていた「インターンをどうすればよかったか」は中々の幽霊だったが最近成仏した。子供になる現象は、最初の会社で出会って14年。私の言葉が通じないパターンは20年ぐらい。教育とか成長となれば、もっと昔からの付き合いだ。

今日成仏しているのは、才能の話。私ができなかったいろんな事と、逆にできたいろんな事。といっても、できなかった事はシンプルで、20年ぐらい前に解決している。単にやってなかった、本当にそれだけの話だと思っている。一方で、できた事はなんだったのか。他の人にどこまでを期待できるのか。これは、この一年で概ねはわかっていた。私に特別な才能はなく、私が習得したことは誰でも習得できることなのだ。ただ、時間も含めて本当にそう断言するだけの自信はまだ無かった。私自信は特別な能力があるとは思っていないが、それにしてもやはり、単純な頭の回転みたいなものが結構速いということは知っている。それは、例えばチェスや囲碁や将棋において、最終的な差はないとしても、立ち上がりの習得速度が速い事に間違いないのだ。そうしたものによって、他人ができないことを無理にやらせる事になるのではないか。私は自信がなくて、その不安が常にあった。いや、この「不安」をもっと正確に表現しておこう。私が自分の経験不足の物事についてできないと思っていた頃に遡る。人にやれと言われてやってみて、実際にできないことを何度か繰り返して、多分それがトラウマになり、私は人にやれと強く言えなくなった。やれと言われて本当にできないつらさがある、と思っていたからだ。根本的にはやるだけのはずと思っていても、その事に強く責任を持てない立場にあっては、「やれ」と言う事ができなかった。強く責任を持てるというのは、たとえば自分の子どもだとか、そういった事を意味する。それだけ、私の小さい頃の経験は特殊だった。

私はずっと努力した事がなかった。前にも少し書いたが、高校まで、おおよそ物事にまともに取り組んだことも、努力したと自分で思える経験もなかった。教科書を持たず、あるいは教科書やプリントが配られてもひたすら落書きだけをして、寝て、酷い時は麻雀をして。それで、中学の実力テストでは一位だったりしたので、私は自分が何なのかわからなかった。高校では、提出物を一切やらないと宣言して、全く勉強しないわけではないにしても多くの時間をゲームと部活に費やし、家でもほぼ勉強しない。「いつも気持ちよさそうに寝てるよねー」と、それまで一度も話をしたことのない女の子に言われる。やらなければ当然できないので、定期テストは赤点がたまにあったが、(親にお前に向いてると言われただけで、高一当時の私は名前もきいたことのなかった)京都大学の模試は受けるたびに成績が上がり、A判定になって名前が載るようになった。全部で6回受けた模試のたびに成績が右肩上がりだったので、本当に今まで勉強してなかったんだろうなと思って笑った。それでも本番は一睡もできなくて、2日目には寝込むぐらいの熱も出て、得点源だったはずの理科はほぼ完全に白紙になってしまったのだが、国語と数学がよくできていて合格した。ちなみにその後もペーパーテストはよくできたので、無対策で受けた国家公務員の試験も相当よい成績で合格した。国家公務員になりたかった訳ではなくて、省庁を訪問することはなかったが。

四当五落、三分の一が浪人する、といった言葉が平然と発される高校において、毎日遊んで9時間寝ていた私は自分がなんなのかわからなかった。本当にまったくわからなかった。私と仲良くしていた友達は半分以上が大学受験で落ちたり志望を下げたりした。大学受験において私は一切苦しい思いをしていないし、家計などの事情で塾にも通っていない。かといって、学校の授業も無視している。一緒に仲良く勉強していた友だちはだいたい落ちた。私は自分がわからなかった。友だち、あるいはその高校の人々にとって大学受験は通過儀礼なのだろうと思った、思うことにした。そうしないと、私は彼らのことを感情的に片付けられなかった。だが、私はその通過儀礼に参加すらしていない。もちろん形式的に合格はしているし、またそれは形式ではなくて再現性のある実力であることも間違いはないのだが、私は何も努力をしていない。虚無だった。いま鬼滅の刃でいうなら、童磨みたいなものだ。

父から世の中には怪物がいると言われて、高校生活までで出会えなかった怪物に出会うことをちょっぴり夢見て生きていた。私自身はそのような怪物の足元にも及ばないと思っていたのだが、しかし一方で、私は大学ではっきり足元に及ばない怪物と思えるような人に直接は出会わなかった。世界的に優れた業績を残す大学者や特殊な能力のある人とも接していたはずだが、怪物という言葉で語られた才能のうち、私が特に気にしていた頭の回転のようなものでは、真の怪物(?)と感じることはなかった。才能に囲まれていたはずだが、私の考えているようなものはほぼ幻影に近かった。今思えば、だいぶ才能を見る目が歪んでいたと思うが。これは就職するまで引きずって、就職活動では奇跡的に二社目で出会った社長が紛れもなく怪物であると感じて、そこしかないと思って、怪物という軸だけでその会社を選んだ。結果的にそれは正しく、また早々に出会えたのは幸運だったと思っているが、しかしその分相当な苦労もした。何にしても、少なくとも後悔はないし、今も深く感謝している。今の私の人生は、彼女の作った会社なしでは成立し得なかった。ほかにも、どんなに頭が良くても成功するのはそれとは全く別で難しいとか、いろんな事を学んだ。怪物の現実を知ったつもりになった。話が逸れた。それで結局、才能とはなんなのか。何もわからなかった。

そのような私が、なぜ試験に強かったのか。それが才能ではないとして、ではどういう行動習慣、あるいは拘りがその強さを生んだのか。突然変異ではないのか。その理由をとうとう説明できるようになってしまった。今日成仏した幽霊は、そいつ。私の人生を長らく蝕んだ、そう、蝕んだといってよいであろう、才能の話。

私はマンガとゲームが大好きで、それらに相当の時間を費やしていた。友達がいないわけではなかったが、友達と頻繁に遊ぶ習慣がなかったので、学校から帰ってきたらずっとゲームかマンガだった。大学に行くまで一貫してずっとそうだった。マンガは相当な量の蔵書があった。多分、低く見ても千人に一人ぐらいの水準で当時はマンガを読んでいた。かつ、私は文章を書くのが好きで、小2の時に「小説」を書いていた。内容は年齢相応のものだが、ただおそらくそれによって、私の中で日本語の質感がへばりつくようになった。なんというのだろう、言葉の使いこなし具合というか質感みたいなものがあって、それが他の人にとって心地よいかは全く知らないが、とにかく自分の言葉としての質感があるのだ。英語はこの質感が全く伴わなくて、私は英語が全く好きになれなかった。学習という行為をする中で、私はこの質感を非常に大切にするようになっていた。この質感は今井むつみさんが記号接地と呼んでいるものの事だと今では思う。当時はそんな言葉は知らなかったが、私は自分の使う言葉が他の言葉と接触して質感を持たないと使えなかった。意図的な暗記が大嫌いで、人生でやらないというぐらいに強烈な拒否感を持っていた。ただ言葉を操作するのは得意だったので、全然知らない言葉であっても、それを周りとの関係性から操作的にアバウトに理解して「独自の理解で使いこなす」という行為はよくできた。連想ゲームのようなものだが、そのような事の繰り返しで、とにかく自分の勝手な理解を作り上げていった。かつ、私は細かい事を気にする方だったので、そうして作り上げた言葉の世界がなるべく外界の正確な写像である必要があった。事実として異なる、解像度が低い、という事に対して、これもまた強迫的な拒否感があった。大前提として、事実がもっとも正しく唯一無二である、というような思いはあった。そういうわけで、事実をすごく大事にしつつ、操作可能な言葉の世界を作り上げる。それは他者の言葉遣いとは多少違っていることもあるが、少なくとも自分の中では外界を正確に記述し、かつ記述全体で論理的に正しいものであろうとする。そのような外界の受け止めをしようと徹底してきた。

そうすると、例えば算数においては、定義に対する感情的な好き嫌いがしばしば発生する。たとえば、掛け算と足し算の順序。1+2×3は、9ではなくて7だが、これが私はたいそう気に入らなかった。本当に気に入らなくて、この世から結合法則のような乱れた記述は消滅すべきぐらいの気持ちで結合法則と接していた。今まですっかり忘れていたのだが、算数の教科書でも、破きたいぐらいの気持ちだった。というか記憶がおぼろげではあるが、実際にそのページを破いていたかもしれない(他に教科書を破いた事はないので、これは余程のことだ。よく考えると、結合法則が嫌いで教科書を破こうとする小学生はさすがにやばいだろう。)

二次方程式の解の公式やベクトルもそうだった。とにかく自分の中ですぐに記号接地できないものは、圧倒的に嫌いになり、自分の世界から外れるようにしていた。因数分解や多項式の割り算などもそうである。しかし、テストなどでどうしても求められるので、「仕方なく」自分にも受け入れられる説明を探す。教師に頼らず。そう、本当に仕方なかったのだ。私は二次方程式の解の公式、加法定理、ベクトル、全て元々好きではなくて、嫌いだったのだが、しかし怪物に会うにはどうもそのようなものを学ぶことが必要で、であれば自分の扱えるようなストーリーで理解をするしかない。そう、私の当時の主観としては、勉強が好きというよりは嫌いで、ただ事実と異なったりわからなかったりするのはもっと嫌で、仕方がないから合理的に理解できる説明を自分で作り出して、それをなじませて質感のある世界を保つ。そのような事を必死にやっていたのだ。怪物と会えるかもしれないので、仕方なく。あるいは、褒めてもらえるので。いや、褒めてもらえる事ではなくて、単に喜んで欲しかったのだ。私が褒められる必要はそこまではなく、それよりも単に父が喜んでいる姿が見たかったのだ。自分が認められるかという不安もないわけではなかったが、それよりは単純に喜んで欲しかったと思う。私は父の方法が「正しい」事を示したかったのだが、それは結局は喜んで欲しかったからであり、私自身が認められたかった訳ではない。私はどうでもよくて、父が認められてほしかったのだ。例えば「塾屋は、底辺高から3年で早稲田通すことよりも、東大京大何人通した、しか見てへん」と嘆いていた父を、世間に認めさせたかった。自分がすごいと思うもの、確かに他の人の人生を変えているはずだと思うこと、でも認められていないという自認のある父を、シンプルに世間に認めさせて、喜ばせたかった。そうだ、私の原点は、そうだったんだと思う。お金はなかったがゲームとマンガによる"しあわせ"は十分にあった家庭において、私はそんなに欲しいものがなかったが、父を喜ばせる、ということは明確に欲しいものだった。私はそういう人間なんだろう、今でも。

また話が逸れた。とにかく、これが、自分自身で記号接地を促す行為であり、また限界的練習でもあったのだ。だが、そんな理論は全く知らず、呼吸をするように、物事の法則や事実に対して、なんとか自分が素直に受け入れられる説明をつけて、あるいはそのための構造の分析をやっていた。これは本当に呼吸と同じだった。私がものを学ぶということは、使いこなしつつ説明できるようにする事であり、とにかく滑らかに自分の世界と接続する事だった。これはつまり、高校までの勉強に対して、記号接地と限界的練習を徹底していたということなのだ。私にとって説明できない事は本当に居心地が悪い。この説明を強要することが自分をコンフォートゾーンからずれた位置に置くこと、あるいその時点の認知の限界を超えて認知を拡張しようとする試みであり、かつその説明について父からのフィードバックを受けたり、あるいは教科書や赤本(実際には緑や青である事の方が多かったが)を元に自分で正誤を判断したりした。生き字引のような父は、私が聞くような範囲のことについてはほぼ正解を返したし、高校からは自分で論理的な判断をするようにした。それを、たとえばご飯を食べて食休みしている間にやっていた。高校の友達に指摘されて気づいたのだが、食後や睡眠前に赤本や参考書を持って寝っ転がり、マンガと同じ気持ちで寝そべってそれらを読むというのはあまり普通ではないのだ。私にとってはゲームやマンガと大差ない対象で、それは努力でも勉強時間でもなかったのだが。いま、食後や就寝時に寝そべってiPhoneでこんな考えごとをするのと全く同じようなことで。

まあとにかく、記号接地に対する偏執的な拘りがあって、それで私は勉強が得意になってしまった。教師の言うことはほとんど聞かず、ただ自分で教科書なり資料集なりを読んで、そこから自分の納得できる世界を作ることを繰り返し、時に受け入れられないもの、例えばベクトルや行列は拒絶して。そういう事をやっていると、その限界的練習であったり記号接地/心的イメージづくりが強力に作用して、勉強が得意になったのだ。

弟妹には、理解できないものを自然のままで理解できるようにしないといけない、という強迫感はおそらくなかった。それが、学校の勉強における、私と弟妹の最大の違いだろう。私は限界的練習を勝手にやる事になってしまったが、学校において弟妹はそこまでではなかった。妹は高校まで一緒でそのうち離脱して、弟はもっとはやくに離脱したが、しかし弟は別の境地に至って、今は私とは全く違う方法で、しかし限界的練習を、私以上に必死に繰り返している。そういえば、私には父に課された任務もあった。結局ちゃんとはやっていないのだが、私は父が理解できなかった量子力学について小学生の間に父に対して説明しろと言われていたのだ。説明への拘りには、それもあるだろう。昔は理解できていなかったと思うが、これは量子力学を数理的に説明しろという意味ではない。たとえば確率的な振る舞いなどの身体感覚と異なる概念を自然に記号接地させよ、というのが父の指示の趣旨だった。生物の研究者を志していた父にとって、位置や運動量は身体感覚に根ざしていた。それを記号接地させろ、ということだった。果たして、量子力学そのものの説明こそしなかったが、私はそのような説明の考えを後生大事にするようになってしまった。私の知る限り、弟妹にはそのような任務はなかった。

それが、「なんで、私が京大に!?」の答なのだ。才能ではない。限界的練習と記号接地、あるいは心的イメージの構築に全振りした結果だった。それらのない暗記を文字通りほぼ一切やらず、授業のようなものはだいたい無視して、病的なまでに記号接地に拘った。あらゆる物事を、言葉で表現できる限りにおいて、正確に整理してそれまでの言葉と結びつけて理解しようとする。それが生み出した結果なのだ。おそらく、ほぼ完全に分かった。

ちなみに、そのような全力での記号接地を目指してなお、私はニュートン力学のF=maということの意味を大学2年ぐらいまで体感して実際の感覚への記号接地ができていなかったし、高校物理の回路はパーツごとにルールが決まったパズルを解くのだとも思えていなかったし、ベクトルに至っては全く理解できていなかった(それで私はセンター試験で数学が一番悪かった。数学を勉強したいと思っていたのに)。大学入試とは"その程度"のものだということ、自分自身が全く理解が足りていないということ、それは昔から実体験としてわかっていた。自分が愚鈍であることは、自分自身がもっともよくわかっている。でもそれでも、世間的な大学受験攻略者たちの向き合いよりはまだ記号接地できている方であるということがあり、なぜ苦労も努力もしていないのにそうなるのかわからなかった。いまようやく、全ての事実を初めて整合的に理解できた。生きているうちにその答えが手に入るとは思っていなかったので、人間生きてみるものである。

後日談、ではないのだが、私はとりあえず京大に行ったので、それまでの時点で言えば父は正しいと言えるだろう、ぐらいの気持ちになった。もちろんその後も人生は続いていて、大学なんかはスタート地点でしかないのだが、まあ父のことを示すには十分であろう、ぐらいの。その後は多少の紆余曲折を経て、そろそろ自分の人生には自分で責任を持とうと思い、数学は決して嫌いではないが本当のモチベーションではないような気がして、数学の研究を仕事にするのをやめた。その頃、ちょうど自分が全く本気で生きてないという事に気がついて、せめて死ぬまでに本気で生きた瞬間が欲しいと思い、多少怠けつつ本気で生きる事にしたのだった。だから私の中では、大学院に行くぐらいまでは全く本気で人生を生きていなかった。かつ、弟も妹も学校の勉強の意味で成功はしなかったので、ますます社会人になるまでの私がなんだったのかがわからなかった。弟も妹も、私からすれば、自分より才能があるように見えていたにも関わらず。その答えがようやくわかった。おそらくはここに書いたような事が全て。そして、それはきっと、どのような才能についてもそうなのだ。たぶん。主観的に苦しいかどうかは別として、認知の拡張・精緻化を絶えず続けること、それだけ。

私の人生の最大の幽霊、「怪物」はここに消えた。枯れ尾花とは言わないが、正体はわかった。もう才能への執着はない。苦労すれば得られるわけではないが、生得的に一瞬で得られるものでもない。どう子どもを育てるかという新たな課題もあるが、私の心はとてもすっきりしている。

@339s
あるソフトウェアエンジニアの考え