混乱と落ちこぼれ

339s
·
公開:2025/1/4

私が関わる人、あるいは私が携わるチームで、ほぼ唯一、かつほぼ確実に、人がパフォーマンスを出せなくなるパターンがあった。言語化はできていなかったが、とにかく一回その状態になると二度と元のパフォーマンスに戻ることはない、という状態があった。このパターンにはほぼ例外がなく、かつこのパターンを経由せずに辞める人はいなかった。

そのメカニズムが、ようやくわかった。混乱なのだ。

メカニズムの詳しいことは「成功と失敗、学習と混乱 - 混乱を乗り越えるには」の記事に記したが、前提となる知識が足りないか誤っているかで新しい知識を獲得できないときに混乱が発生し、かつその混乱は前提となる知識が正しくなるまでいつまでも継続する。

実は、そのメカニズムは本質的に学校の授業の落ちこぼれと一緒だ。学校の授業で落ちこぼれた児童生徒は、ふつう何らかの助けなり自助努力なりがなければ、追いつくことはできない。それと全く同じように、一度混乱した人は、何らかの助けなり自助努力なりがなければ、元の状態に戻ることができない。

私は、決して混乱を受容していないつもりではなかった。もともと、混乱は学習において避けられないことだと思っているし、むしろ混乱を乗り越えてなんぼだと思っていた。混乱していることそれ自体を問題だとも思っていなかった。混乱は失敗と同程度に必要なことだと暗黙のうちに考えていたからだ。

ただ、リカバリーの必要性は全然違った。

例えば失敗と混乱が同時に起きたとき。あるいは、混乱しているから失敗したとき。その場の仕事のスピードだけで言えば、失敗を修正することが優先であり、私は失敗を的確にリカバリーする。混乱している本人が、何もわかっていなくても指示に従えばとりあえずなんとかなる指示を出すか、それが難しければ私が直接リカバリーをするか、いずれも短時間で終わらせる。あとは、もしやる気があるならばその結果を見て学んでくれ、ぐらいの気持ちだった。

当然だが、それではダメだった。混乱は継続するのだ。

混乱を引き起こしているのは、単純なエラーではなくて、仕事に必要な知識を学習・記号接地できないことなのだ。それを根本的に解消しなければ、混乱はいつまでも解消しない。同じ知識が必要になれば、同じように記号接地できずに混乱が発生して、一層パフォーマンスの落ちた状態で物事に取り組む。それが他の物事にも影響する。こうして、落ちこぼれが発生していく。

この混乱の解消は、失敗の解消だけでは対応できない。というのは、失敗の解消に必要な知識を単純に教えたとしても、既に混乱する程度には記号接地を試みているので、改めて答えを伝えても記号接地できない場合があるからだ。その失敗解消のための知識を記号接地させるために必要な前提知識に対して、混乱している人の知識の過不足を学習・アンラーンすることが必要なことで、そうして記号接地を速やかに行わないと、落ちこぼれてしまう。

事業や組織が大きくなったり、システム自体が成長したり、という中で開発を続けると、その成長速度と同等の成長を個人も進めないといけない。つまり学習をする必要があり、その学習過程のどこかで混乱してしまうと、そのまま落ちこぼれる。これが、唯一かつ確実な負けパターンだった。

具体的な記号接地の方法は個別その場で考えるとして、混乱を検知したときにそれを根本的に解消するための取り組みが必要ということ。教育、学力再生、そういったことが求められている。

混乱を自認すること、混乱していると宣言できること、単純な学習ができること、アンラーンができること、それらを通して既存の知識との接続ができること。

と、ここまで書いたことは正しいし事実なのだが、元々それを書こうと思って書き始めたわけではない。

かつて、こんなポストをしていた。

ドンマイ川端は、全日本での優勝経験がある、つまり日本一になったことのある現役の柔道YouTuberだが、YouTubeだけを見れば本当に楽しそうに柔道をする。柔道経験者は、石井慧(北京五輪金メダリスト)との打ち込み動画とか見ると本当に面白いと思う。

ところで、私は中学校まで、こと体育に関しては完全な落ちこぼれだった。学年で一番足が遅く、体力もなかった。小四のときの50m走の13秒というタイムは一生忘れないと思う。いま調べたら、小一でもスポーツテストで最低点になる水準だった。手を抜いているとかそういうことは全くなくて、私は本当に本気で走っていた。他にも、学年でただ一人自転車に乗れなかったということもある。五年生の頃だったか、交通ルール講習みたいなもので、一人自転車を押して歩いたことがあった。体育の通知表は大半が△で埋まっていた。このレベルの人間がリレーのチームにいると、そのチームは確実に勝てないので、私はリレーで最下位以外を取ったことがない。いろんな意味で悔しくて、運動会やそれに類するものでは何回泣いたかわからない。自分の存在を呪うみじめな気持ちになった。ただ、筋力がないということはなくて、例えば握力は23kgで平均以上あったし、ソフトボール投げや上体起こしなどは平均程度だった。

そんな私は中学校で部活動をやるつもりなんて全く無かったのだが、高身長な帰宅部の友達が柔道部に誘われていて、一緒にいた私も芋づるで誘われた。当時の私は最初に柔道をやった時にどう思ったんだろう。正直全く思い出せないのだが、まあ練習自体は全くついていけないものではなかったので、とりあえず柔道部に入部することにした。中学で柔道をやる間、特に強くなることもなく、また自分がなにかできるようになったという自覚もほとんどなかったが(後転倒立とかの回転運動はできるようになった自覚があったかもしれない)、実は体は地味に動くようになっていた。中学を卒業するまでに初段は取れなくて、一級の茶色の帯で中学を卒業した。まあ運動できないしそんなもんか、ぐらいの気持ちだった気がする。

高校に入ってからも、一応柔道を続けた。高校の柔道の先生は、五輪三連覇の野村さんと同じ高校・大学(の何年か上)の方で、「野村を投げたことがある」と「腰が痛くてな」が口癖の、すごくおとなしい方だった。最高成績は国体3位だったそうだが、本当にとにかくおとなしい方で、常に落ち着いて控えめだった。一般的な体育教員のイメージとは真逆の存在とでも言うのだろうか、本当にとにかくおとなしい。この先生に教わって、私は初めて自分の技で人を投げる感覚を掴むことができ、投げることが面白くなった。試合で何度か投げることはできたが、結局あまり強くはならなくて、最後は三年生の県大会で三回戦ぐらいで、時間いっぱいやって判定で負けた。ただ、その時の柔道は本当に面白くて、試合が終わったときに相手がものすごい笑顔で、自分も楽しかったので負けたのに笑顔だったことを覚えている。お互い技が決まっているわけでもないのに、それでも本当に面白かった。冷静に考えると、あれはなんだったんだろう。

そんな自分は、高校でスポーツテストをやったときにCという判定になった。ABCDEのC、いわゆる人並みということである。50m走は7秒台になっていた。これが私には本当に嬉しくて、小学生のときには学年で一番走るのが遅かった人間が、人並みになったのだ。大学に入るまでの経験で、私が努力することの意味を感じた出来事は、このスポーツテストの成績だけだった。大学入試では、こんなことは感じなかった。それを与えてくれたのは柔道であり、また柔道を通して指導をしてくださったすべての方だった。大学では、これ以上柔道を真剣にやるとそちらに引っ張られてしまうと思い、柔道部には入らなかった。そうして、もう道衣を着なくなって20年以上経ち、柔道に関することを全くやっていないが、しかし私の人生は柔道によって大きく変わったと思う。

私は落ちこぼれを否定したいとは全く思っていないし、実力によらず楽しく物事に取り組みたい。できればそれを仕事や自分の組織したチームでもやりたいが、どういうわけか、結果的にうまくいかない。ドンマイ川端のYouTubeに映っているような空間のプログラミング版に、どうして自分は至れないのか。

そんなことを思っていると、ドンマイ川端が教えに行っている部員が三人〜四人の高校で、最初から活動していた部員が休部(退部)することになった。この休部について、色々な難しさをときに言い淀みながら説明するドンマイ川端を見て、まあ難しいよなあということを思っていた。その後、年が明けて、その顛末の話も含めて顧問と忘年会をする動画がYouTubeに上がった。

ドンマイ川端の「過激練習になったことを今認めます」という話がすごく胸を打った。

時期がだいぶ前後するが、鈴木桂治(柔道男子日本代表監督、アテネ五輪金メダリスト)が開いているKJA:鈴木桂治柔道アカデミーというものがあり、ここでは「療育も含む」柔道を通した教育の場を提供している。一般的な柔道クラブと比較すると、楽しさという部分を強調しているところが特徴的で、上に書いたような私自身の個人的な経験を通しても、その理念は実際に体現できるものであろうと思っている。このKJAを紹介するドンマイ川端のYouTubeを見たときにも、これを仕事と両立することはできないのか、と思った。

柔道とは全く関係ないYouTubeで、桜井政博のゲーム作るにはというチャンネルがある。私はゲームを作っている訳では無いが、基本姿勢に大きく賛同している。特に賛同する動画の一つに、次のものがある。

「プロに徹し、需要に対して器用にふるまうことだって大事だと思います」ということ。自分の好き嫌いみたいなこととは関係なく、求められることをやる・求められる水準に達することが必要であり、それは楽しいという気持ちだけではたどり着けない。このチャンネルの別の動画に「とにかくやれ」というものもあるが、実際、「とにかく今すぐやれ」で終わることは多くある。常に楽しいとまでは言わずとも、厳しすぎるとはならないように、どうにかできないものかと思っていた丁度そのときに、先程の忘年会動画が上がったのだった。

忘年会動画で語られた休部する生徒もまた、落ちこぼれている。おそらく、環境や周囲の人が悪くてついていけないという事ではないのだろうが、柔道が強くなる実感や楽しい実感もなく、ただただ純粋に脱落していくという感じなのだろうと私は感じた。

個人としての私は、ただのプログラミングの好きな、あと柔道と数学がちょっと好きな、部屋の隅で変なことばかり言っているバカぐらいのものなのだが、仕事として考えるとやはり届ける先があり、恥ずかしくない仕事をしたいと思う。そうすると、仕事の失敗はリカバリーしないといけない。このリカバリーの過程で失敗した人は混乱しているのだが、その混乱のフォローができていなくて、混乱は単発の失敗と違ってずっと混乱したままになるので、ダメージが入り続ける。そうして脱落していく人が出る。自分自身も落ちこぼれだったし、落ちこぼれを出したい訳でもないのに。

結局何を言いたいのかわからなくなってきているが、こういうウェットな色々があるなかで、私はようやく根本的な混乱の構造を理解できた。それぐらいの話。