ふと目を覚ました。隣には次女がいる。完全に壁際で寝ていた私の進路が塞がている。長女とも隣接はしていて、横にいるのが次女だと気づいて状況を理解するまで少し時間がかかった。たしかに、最後に次女だけ起きてはしゃいでいた記憶はあったが、少し意外ではあった。
1歳時点で比較して、明らかに次女のほうが私に寄ってくる感がある。長女はそもそもの行動パターンとしてすり寄ることが少なかった気もするが、お母さんっ子ではあった。最近でも母を独占しようとして、それで次女がこちらに来ているというパターンがあった。一方で、長女は色々な意味で母親のキャパシティの概念を理解しはじめてはいて、自分から父を選ぶケースも増えた。今日も長女と寝ていた。そのような今を切り取って、子どもたちに向ける感情に違いはないつもりでいる。
ただ、もし子どもが複数いて、明らかにある子どもだけが自分にすり寄ってきた場合に、その愛は等量注がれる「べき」なのだろうか?
私はなんとなく道徳的に等量注がれるべきではという気持ちもあったが、当の本人たちからしてみれば、意識してすり寄った先に待っているのが等量の愛であったとしたら、「努力」が否定されることになる。それで、よいのか。
愛というのは本当に難しい。これは私の話ではなく父の話だが、父はしばらく伯父夫婦に預けられていて、実母に対して「(預けられていた先のおばをママと呼んだうえで)このおばちゃん誰?」と言ったそうだ。その後、祖母は三人を平等に愛そうとしていたと聞くが、「自分に子どもができて、無条件の愛というものを感じたときに、祖父母たちはそうではなかったのだろうと思った」と父は言っていた。その理由付けというのか、関係を悪くしたエピソードとして、「ママ、このおばちゃん誰?」のことを挙げていた。
祖母は、私が高校三年生の頃に亡くなった。この話は、たぶんその頃か、またはそれより後に聞いた話だったと思うのだが、それよりもずっと前に聞いた別の話にはこんなことがあった。題して、「百点なんて猿でも取れる」――題などではなく、実際に口から出た言葉なのだが。
私は祖母と一定の接点があったが、しかし祖父母と父の間にはある意味で海原雄山と山岡に近いような関係があって、小学五年生ぐらいまでしか直接的な接点はなかった。父の意地で、当時の祖母からのお金を受け取らずに借金として返済するのだといい、一般的なローンなどとは別の数千万円だかの借金があって、生活水準の違いがあったということもある(その借金は父が会社を作った時のもので、会社はうまくいかず畳んだ)。話が逸れてしまった。スパスパとタバコを吹かして、孫である私にもタバコを吸わせてみる開業医であった祖母は、なんとも豪快な女帝であり、Happy!の鳳唄子そのもののような印象を今でも持っている。
その祖母がずっと若く、父が小学生だったころ。
私の父は頭の回転が早く、小学生の頃に暇で図書館の本をすべて読んだと聞いている。IQテストが面白くてやりこんで、やりこんだ結果としてIQ測定不能になった。それでテストがあって、伯父伯母がテストで百点を取っていなかったときに、父は百点を取ったそうだ(もちろん全く同じテストではないだろうが)。そのときに喜んで祖母にテストを見せたときに返ってきた言葉が、「百点なんて猿でも取れる」なのだ。小学生の頃に「百点なんて猿でも取れる」の話を何度か聞かされた。褒めてほしくて必死に頑張ったのに褒めてもらえない、生意気な社会的地位のある金持ちの子ども=ボンボン。
今の私の思うことは、小学生の頃よりもっと複雑だ。
私は大学に出て、父にも至らぬ部分があったということに気づき、今に至るまで価値観が変わり続けている。中学〜大学ぐらいの当時においても、正確な表現ができないが、父の考えがなんとなく間違っているような違和感のある瞬間はあった。実の子どもがそう感じていたのだから、おそらく昔はもっとそうだったのだ。祖母は、そのような我が子を正したいと思ったのだろう。私は「百点なんて猿でも取れる」という強い言葉の真意をわかっている気がしている。そして、確かに「百点なんて猿でも取れる」は小学生であれば理解できる事なのだ。ようやく小学生になる長女は、まだそれを理解できてはいないと思うが、それを理解するための土台はできていると感じる。このままいけば、数年で確実に理解できるだろう。もっとも、私はさすがにこの言葉は使わないだろうが、理解できたあとにはこのような複雑な話をするかもしれない。
祖母は、小学生でもわかる(が大人でもわかっていない人がいる)ことを小学生に教えたかった。そして、教えられなかったのだ。でも、それは愛であって、かつ本当に必要なものだったのだ。と、私は思う。伯父伯母には別の必要なものがあり、そしてそれをもう少しうまく受け取ることができたのだろう。平等であったのかとか、そういうことは実際にその場にいたわけではない私には分からないが、ただ愛していたかどうかだけで言えば、まあ愛していたのだろうと私は思っている。「ママ、このおばちゃん誰?」という言葉が与えたダメージを否定はしないが。
そういう出来事を知っている私は、子どもに愛されていたいという気持ちもあるが、しかし自分が愛されることは基本的にはどうでもよく、本人の可能性を損なわなければなんでもいい。
愛とは本当に難しい。しかし、紛れもなく人のしあわせを規定する重要な概念だと思っていて、次女にはそれを冠する名前を与えた。長女も同じぐらい重い名前を背負っていて、それに比肩すると思える名前はそう多くなかった。平等に愛することを実践する上での一番最初の課題が名前で、なんとか平等にできたと思っている。これは、特徴的で個性的、かつ祖父の人生を意味する名前を与えられた伯父に対して、数字のつく特徴のない名前を与えられた父を見ていて、気にかけていたことだった。それは、長男が入学したときの机に貼られていたピンクの名札に対する「反省」の結果だったのかもしれないのだが。
子どもたちが目を覚ましたので、丑三つ刻の話はこれでおしまい。