今日、3/29は卒園式があった。
私のコンディションはあまりよくなく、式典や謝恩会の7割ぐらいは次女を見ていることになったが、色々と感じることはあった。
2歳児のころ、こんなこと(「こどものあいだ」に子供に知っておいて欲しい13のこと)やあんなこと(理屈を超えた世界との向き合い方)を考えていた、その結果は子どもが6歳になって卒園を迎えた今、どうだったか。
まず、保育園は長女によく合っていて、この保育園で正解だったと私は思う。卒園式の日取りがこの日であるということもそうだが、もともとかなり感情移入の強めな、やや変わった園ではあった。うちの子どもは1歳の8月、新型コロナの真っ只中からの入園であったが、そこから5年弱、めちゃくちゃな時間に登園する子どもをおおらかに受け入れてもらい、最終的に子どもは保育園でリーダーシップをよく発揮していたそうである。どのように転ぶ可能性もあったと思うし、実際たぶんクラスのめんどくさい子No.3ぐらいではあって、No.1になっていた未来もあったと思うが、時折センシティブでかなり論理に厳密だが基本的にはおおらかでおちゃらけて優しい、進んで建設的なことをするリーダー気質の子、というポジションは悪いものではない。これから知り合いの少ない小学校でどうなるかはわからないが、今のところ順調な道を歩んでいると思っている。もちろんこれは私の感じることなので、実際にそれがよいのかはわからない。わからないし、本人が自分で評価することだろうと思うが、まあそれでも、よかったんじゃないかなと思う。
友達ができるかどうか、ということは色々と思っていたが、さいわい似たような性質の子たちの迎えの時間が同じぐらいだったので(要するにライフスタイルが夜寄り・ギリギリ寄りなのだろう)、特に降園で一緒に帰ることが多く、親も含めてわいわいと帰っていた。
保育園自体がかなり特殊な状況だったのもあるが、6年間ずっと働いていた保育士が数人いる中で、特に最初の保育園がここで、うちの子どもの学年の0歳児時点で働きはじめて、という人も複数いて、その中で去年までやってなかった行事をやってというようなことができて、本当に保育園にはお世話になった。挨拶を聞いていて、なるほどなあと思うところがあった。私自身は幼稚園の出身で、幼稚園で自分自身が泣くようなことは何もなかったし、私自身の成長が遅くて鈍かったのもあるだろうがこの保育園で得られたようなものは全然何も学んでいなかったように思う。6年間、子どもたちが生まれて間もない頃から、家族ではなかったがずっと触れ合っていた人だったのだ。まあ実際、祖父母よりも接点があったのは間違いないだろう。保育士のメンバーの若さによる勢いもあったのだと思う。なにかの歯車が一つでもずれるとうまく噛み合わない、絶妙な幸運だったと私は思っている。
保育園以外で、どうだったか。
次女が生まれて、次女にはちょっと自分主体でかまっている部分もあるが、とはいえ基本的には良い関係性を構築しようとしている(次女からどう見られているかは時によるが)。
本人の意志でダンスとギターを週一程度はじめて、それは今の時点ですごく上手くなるというような強迫的なものではないが、普通に楽しんではいるように思う。他のいろいろなことも、少なくとも判断という部分において、本人が主体的に行ってきた。
そのような意味では、冒頭に挙げた「こんなこと」の進捗が1〜2割、「あんなこと」の進捗が6割ぐらいで、また今に至って根本的に間違っていたと思うようなことはなかった。足りなかったというか、取り組んでいる中で別で気付いたのが、「学習するとはどういうことか」ということについての根本的な考え方だった。なお、これを会社で試そうとして、もうちょっと方法あったかな、というのも今日のコンディションが悪かった原因の一つだった。まあ、それも「チャレンジしたからこそ生じる失敗」なのだと思うようにはした。致命的な可能性もあるが、まあ致命的にならないようにこれから頑張ればいい。
総じて、保育園児はしっかりと育っている。親の贔屓目があるにしても、私が課題だと思ったメタ認知にかかる部分の多くは、しっかりと身につけることができている。(ただ、経験的にこれはほとんど贔屓目がないだろう、という風には思う。)「小学生にもできることが、いい大人でもできない」は「保育園児にもできることが、いい大人でもできない」である、という現実に直面している。決して、だから馬鹿にするとかではなくて、境遇や機会に関する運とか、様々な要素があるのだが、シンプルに私が苦労したことの一部は保育園児でもできることであり、かつ、今なお別の大人がそれに苦労している。代わりに大人にできること、例えば社会の仕組みに沿って社会的な価値を実際に直接生み出すこと、そういったことはもちろん保育園児にはできない。でも、とにかく、その事実をどう受け止めるか。
ここから先は、親の贔屓目がある、というか妄想的なこと。元々仲の良い園であるという前提の上で、それでも子どものクラスは明らかに他の上下の学年よりも仲が良かったと思うし、色々な意味で雰囲気が良かった。また、良し悪しあるにしても、うちの子どもがそのリーダー格であり、ある程度の雰囲気や方向性を作る機能があったことも客観的に事実だと思う。その子どものメタ認知が、クラスに貢献できていたなら。これは妄言ではあるのだが、しかしそのような可能性はあって、メタ認知が貢献できていたかもしれない。私は自分自身がざしきわらしで在りたいが、同時に子どもにもそのような属性が勝手に付与されればよいと思っている。多分、そういう効果を生むことはできると思う。そうやってしあわせを増産できたなら、それはすてきなことだ。