苦手なこと、20年来の失敗の答 - 教育とアンラーン

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公開:2024/12/5

人にものを教えることは、難しい。私の場合は極端で、人にものを教えようとすると、うまく教えられるときと全然教えられないときの2つの結果にはっきり分かれる事が多かった。

人間のバイアスを完全に排除することはできないが、その前提で、私は比較的バイアスを排除してものを見られるタイプだった。複雑な物事を複雑なまま、変に全体の縮尺を変えずに見られるタイプ。そうして見た事実を組み上げて、事実を事実で説明するのは得意だった。

昔から、誤解されることや、事実を間違って理解されることに強烈な抵抗があった。それぞれの人に考えがあるというのはもちろんそうだが、私は考えよりも事実がどうあるかの方が大事なタイプで、事実としての正しさ・いわゆる真実が大事なことだった。自分と違う考えの人がいるのは当たり前で問題もないが、例えば自分がAと考えているときに(これは事実)、「自分はBと考えていて、それはAではない」というようなことを言われると、それは単純に事実と反するという意味で苛立った。他にも、よく知られた明らかな事実に反するような事を言われると腹が立った。小さい頃、誤解されたくないので説明をするようになり、自分がどう考えているか、客観的に物事がどうなっているか、という事実を理屈で説明する技術に長けていった。

そうして、事実としての説明や解を示すことが得意になり、私は国語で困ることがなくなった。小学生の頃に自分自身で身につけたり、家族との会話などで身に着けたりした国語の力は、その後特に伸びた実感もなかったが、それでも大学入試・就職活動に至るまで最も得意な教科として通用した。断言するが、私は「国語の勉強」というものを本読みと漢字の書き取りとその他テスト以外ほぼやっていない。小学校の中学年ぐらいまでは授業をそれなりに聞いていたが、高学年になると教科書をなくしたり落書きをしたりしていたし、中学校以降は文字通りにほぼ何も聞いていない。授業に参加していなかった。もちろん、宿題もほぼ全てやっていない。本は多少読むことがあったが、「国語の勉強」は、寝る前に読んでいた理科の資料集などとは異なり、一切やっていないと言ってよい水準だった。

そのような私には、教育の概念が最近まで存在しなかった。本当につい最近、2024/11/30までは。

もちろん、教育というのが辞書的にどういったことかということはわかっているし、例えば道徳や物事の考え方ということについては、明確に教育を受けたという理解もあった。家庭教師をしていたこともある。だが、私には学習と教育の区別がなかった。

事実を習う、考え方を習う、技術を習う。すべて、事実としてのあるべき姿を見せられて(あるいは見て)、それを学ぶという方法だった。私の思う教育とは、それを伝えることだった。

人に何かを教えたいと思ったとき、私は自分がそれをどう理解しているかを考え、できる限り論理的に説明するようにしている。これは、自分の学習を追体験することを意図している。この説明が通用しないときは、相手の発言から何が論理的に正しくないか・説明と矛盾するかを感じ取って、その矛盾を細かく指摘・修正していくという方法を取って直していく。通じない場合には可能な限り根源的な要素まで遡っていく。その過程で、説明しなければならないことが大量に出たりもするが、そうした全貌をすべて正確に伝えようとする。わからないことや不確かなことは、わからないとはっきり言いながら、仮説であるということを強調して伝える。全体感を失わず、かつできる限りは正確に、少なくとも嘘にはならないことを説明しようとする。

相手の説明を聞いてその説明を修正する、という方法を取る場合もある。その場合、相手がある箇所で論理的に間違っていて、かつ全体的にも間違った結論を導きそうという場合には、その論理的に間違った箇所を速やかに指摘している。もちろん、全体は正しいが細かいことが間違っているというぐらいであれば、それは強く指摘しないように気をつけてはいる。しかし論理の筋として枝葉末節でない部分は即座に端的に指摘している。また、それなりに細かく確認を挟むことが多い。

このような説明や修正のスタイルは、それで学習できる人にとってはうまくいくのだが、根本的にメンタルモデルが異なりかつ論理的な思考様式に慣れていない人に対しては全然うまくいかない。全くの初学者には説明が通じるのに、既に異なるメンタルモデルが形成されている人には説明が通じない、といったことがしばしばあった。

教育とは、そうした人を変えていくことでもあるのだ。私はそれを知らなかったし、その具体的な方法も全く身につけていなかったし、考えもしなかった。

もちろん、表面的には、そうした人にも「正しい知識」を教えなければいけないとは思っていた。間違った知識を持っている人が事実として沢山いるのはわかっていたし、そうした人に「正しい知識」を提示する必要があると思っていた。自分が学習をするとき、間違った知識は修正していくものであって、それは当たり前だった。例えばスポーツにおいて、修正というのは当たり前の概念であったし、他には紙飛行機を作って投げるということにおいてもそうだった。別の場面では適切な知識であったとしても、少なくともその場にはそぐわないような知識については、「その場においては」修正する必要がある。この知識の伝授においてはしばしば整理されていないことや理不尽もあるが、今の自分にすぐわからないことやノイズのように聞こえることも自分で受け止めて修正・再構築を繰り返していくことが、学習していくということだった。実際、それはありふれた教育でもあると思う。

しかし、そういうことではないのだ。自身の既存のメンタルモデルと「正しい知識」が矛盾するとき、人はそれを直ちに修正することができない。特に全体像をうまく掴めない場合に、「どう修正すればよいのか」ということがわからなくなったりする。それにどう対峙するか、ということなのだ。

これは非常に繊細な構造の話なので、具体例で丁寧に説明していく。

個人が生きた知識を獲得していくとき、その過程における有効な方略(学習効果を高めるための意識的な工夫)として説明方略というものがある。自分が学習したことを人に説明する、あるいは人に説明する想定で整理をすることで、例えば理解があやふやな部分が明確になり、かつその場で確認することで定着を図れる、といった効果のある方略である。この説明方略は、「自分自身がどういったことを理解しているかを正確に予測する」というメタ認知の機能の一つに対して有効と言われている。

AさんとBさんが対話するとき、Aさんはこの説明方略を用いて、自分の理解を深めながらBさんから正しさの確認・フィードバックを受けようとしたとする。ところが、Aさんの理解はBさんから見てそこそこ間違っている。時には考えのスタート地点からそう離れていないところで、大きくずれていることもある。そうすると、Bさんはそれ以上の説明を聞いても間違った前提の上での話になってしまうので、早めに軌道修正をしようとする。ところが、この軌道修正の量がAさんにとって大きい場合には、Aさんは全体像を見失ってしまい、「どこに行くかわからない」話を聞くことになる。Bさんは、Aさんが間違えた理由を考え、それに必要な前提を漏れなく整理して与えるのだが、その前提の量が多かったり、さらにAさんの持つメンタルモデルと離れた事柄を含んだりすると、Aさんは受け止めきれなくなる。しかし、論理的にトレースするとBさんが正しいことを言っていることはわかるので、Aさんは軌道修正された末の結論を事実としては受け止めざるを得ない。あるいは、その他の要素、例えば権威や経験などによって、やはりBさんが正しいと受け止めざるを得ないかもしれない。とにかく結果として、Aさんには記号接地されていない事実だけが残るのである。

このような構造の典型的な事例は、数学科におけるセミナーだろう。学生Aと教員Bの対話において、学生Aは説明をするための準備をして臨むが、最初の定義のステートメントやその前提となる知識を正確に説明できないことによって、セミナーで予定されていた内容の1P目の本当に最初の記述で数時間かけてそれだけで終わる。学部4年生〜修士1年生ぐらいのセミナーの最初によく見かける状況だと思う。

数学であれば、まだ客観的な事実の存在が頼りになるが、世の中の物事は数学ほど客観的な事実が確かではない。それが理論・学術的に整理されていないような業務の場であれば尚更である。正解は一つではないし、誤ったなりにも成果が出ることもある。ChatGPTが身体感覚のようなその他の人間的な感覚や意味に対して記号接地できていなくても成果を出せる場面があるのと同程度に、記号接地できていない人間でも成果を出せる場面はある。不完全な知識の伝授を経ても、最低限の成果は出続けるということがある。

このようなとき、Aさんは自分の理解を深めるために有効な説明方略を適用しているのに理解が深まらないのだが、ここで相手をBさんから別の人に変えるとどうだろうか。Cさんは、Bさんのように間違いを指摘せず、ただ聞くだけとしよう。そうすると、それが誤っていようといまいと、とりあえずAさんは説明方略を最後まで実現することができる。つまり、現在の自分の理解に基づく説明をして、その理解についての自分の中でのメタ認知を深めることができる。それが事実として正しいかどうかとは関係なく、Aさんの中では納得感があり、かつ「誤っているかもしれないが、記号接地された生きた知識」を作ることはできる。Aさんは最終的な知識が本当に正しいかをその場で判定はできないが、ただ自分の中で腑に落ちているか否かの判定はでき、その感覚をもとに「とりあえず知識が深まった」という実感を得られるのである。

これは、敬意や教育意欲の問題ではない。AさんがどれだけBさんに敬意を持っていたとしても、BさんがどれだけAさんに教育意欲を持っていたとしても、単純にAさんの実感として記号接地した知識を獲得できなくて、納得感もなく、徒労とただの結論だけが残る。

「共感」の一つの正体が、この現象でBさんとの間に得られないものなのだ。つまり、このやり取りでは最終的にBさんの提供した知識がAさんの中で記号接地できておらず、その意味で共感できない。途中の説明の過程にも共感はない。お互いに努力して、かつ「正しい知識」を示されていても、それを受け止めることができていないということだ。

スポーツで素振りをしているとき、理想とするフォームがあって、その理想よりも腕が下がっているとか、足が開いているとか、背中が曲がっているとか、そういった事があればコーチは指摘をしていく。合奏の全体練習をするとき、指揮者があるパートの音が弱いと思えば、全体の進行を一旦止めて「この音を強く」などと指摘していく。これらと全く同じように、BさんはAさんに対して、「この論理は破綻している」「この設計はこうあるべき」と指摘をするが、スポーツや合奏と比べると、具体的な目標や目に見える正解を事前に明示できない仕事や、抽象度の高い勉強の場合にはうまくいかない。というのも、もし正解を事前に明示できるとしたら、それはすなわち仕事や勉強(概念の獲得)がその時点で完了しているからだ。事前に明示できないから、仕事になり、勉強になるのだ。ある程度「見える」正解に向かって修正をしていくことと、「見えない」正解に向かって修正をしていくことの難しさの違いがあり、それで仕事や勉強の学習が阻害されてしまう、ということだ。

ただ、もしスタート地点が何もない状態であるとしたら、実は苦労はもっと少ない。理解できるところまで戻って、そこから理解できる内容を積み立てるということで学習を進められるし、その過程には共感もあるだろう。このパターンでうまくいかない本質的な理由は、アンラーンの難しさにある。つまり、Aさんは自分の間違ったメンタルモデルを修正しないといけないのだ。

おそらく、このような状態を避けるように事前に適切な知識を学習しておく、ということはあるのだろう。Aさんが頑張って考えてBさんに持ってきた時点で、根本的な考え方の修正が必要だとしたら、それは既に実力と合っていないかもしれない。しかし、チャレンジングなことをやる場合にこのような状況はしばしば発生してしまうし、それをすべて避けて生きる訳にもいかないだろう。すべての知識がなだらかに繋がって整地された、レールの上に乗って生きる人生を選びたいか否か、ということであり、また実際にそのようなレールが存在するか否か、ということである。そうすると、やはりアンラーンの力が必要になる。

ただの学習ではない教育において重要なこと(の一つ)は、アンラーンを促すことなのだ。私は、アラフォーの今に至るまで、それを全く理解できていなかった。例えば寄り添ったり傾聴したりという方法があるが、その一つの目的は、相手のメンタルモデルの全貌を把握したうえで、どう正しい知識を記号接地するのか、アンラーンが必要な箇所を見極めたり、接地のための前提知識を見極めたり、といったことにあるのだ。

教育とはなにか。(しばしば体系的な)知識を対象者が学習して確立することを目的として、対象者が持つメンタルモデルに対してどうやって生きた知識として接続していくのか、対象者のメンタルモデルにフォーカスしたうえで単純な教授に限らずアンラーンも含めて実現方法を検討・実践すること。

今まで全く気づかなかったが、実は私はアンラーンが相対的に得意だった。思い返せば、それを示唆する事実はいくつもあったし、人生の一つのテーマでもあった。過去の重要な気づきにはアンラーンを伴っていた。例えば、私の大学生活は、スポーツが苦手な自分という考えを払拭する・アンラーンするために捧げたようなものになった。高校の時に一番嬉しかったのは、人並みのスポーツテストの成績になったことで、それも大きなアンラーンであり、人間が成長できるということを実感した初めてかつ大学入学までで唯一の経験だった。できなかったことができるようになったとき、アンラーンは常について回った。センター試験でほぼ0点だったベクトルは、線形代数・テンソル積を経て興味深い対象になり、研究することになった。それでも私はアンラーンのことをとても難しいと思っていて、ずっと苦手なことだと思っていた。実際にこの教育の失敗については、Bさんのモデルをアンラーンする必要があると気づくまでに20年かかっている。ただ、気づいたら、根本的に概念を一新・理解することはできた。教えられないと気づかない間抜けだが、アンラーン自体は得意なのだろう。それゆえに、学習とアンラーンが暗黙のうちに一体化していた私は、教育でアンラーンが必要になるということが全くわかっていなかった。自分のやり方がなにかうまくないのはわかっているが、理由がわからず、なにか決定的に教育に必要なものが欠けているのだろう、ぐらいに思って終わっていた。

ただ、アンラーンと言いつつ、Cさんのあり方が正しいということでもない。仮に事実としてより誤った方向に導いたとすれば、それは将来的に害になる可能性がある。一種のエコーチェンバーとして作用してしまうかもしれない。一方でBさんのあり方は、将来どこかで繋がる可能性のある正しい知識を教えているとすれば、その全てが無駄であるとは限らない。ただ、そうした両極端の事象を踏まえて、Aさんに対するより良いあり方が存在する、ということだ。

AさんはAさんで、改善すべきことがあるだろう。例えば、本を読んで学ぶとき。本はそこに書かれていない新しい主張を始めたりはしないが、しかし書かれていることについてはBさんのようなものだ。突っ込んではこないにしても、Cさんのように話を聞いてくれたりはしない。一人で本を読めるようになるには、Aさん自身が改善しないといけない。典型的な事例として挙げた数学科のセミナーは、一人で本を読むための教育の側面もある。決して無意味なことではないのだ。

ただ、Aさんが改善すべきことの明示も含めて、教育としてできることがもっとある。

このような発見を与えてもらえたことに、深く感謝している。

@339s
あるソフトウェアエンジニアの考え