人間万事塞翁が馬とアンチフラジャイル - 概念を大事にする

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ある人が鮨の店に行き、そこで店主が弟子に引っ張られながら威圧感のある表情をしている写真を撮影して、インターネットでその写真を煽情的な言葉と共にばらまいた。

店主から見れば、そのような事が起こるのは事故のようなものであって、他の客も居る中で店内でそんな写真を撮影されてしまうのは、とても気分を害する経験であっただろう。この出来事自体がプラスであるとは普通は評価できない。

インターネットでは、その写真が出た時点ですでに店主に対して賛否両論の意見があった。店を以前から知る人の中には、あの店主がそのような事をするとは信じられない、応援としてまた食べに行きたい、と語る人もいた。やがてその場に居た人の証言やインタビュー等が出回り、「写真そのものは一瞬の事実であるにしても、それ以外に様々なやり取りがあった」という事を多くの人が感じ取れるようになった。中には興味や話題性を求めて訪問した人も居たとは思うが、少なくとも当初よりは事態が好転しているように見える。

このような事象を表現する言葉として、「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。実際に店主が受けた心労を取り返したかはわからないが、おそらくは店が話題になった事によって来店が増えたであろうし、一部ではより評価を上げたと思える。悪い出来事が、却って良い結果を生む事になった(という状況を現実に拘らずに想像してほしい)。馬に乗って骨折した男が戦争に行かずに済んだ、という事との共通点を見出すことは容易い。

しかし、この出来事は本当にそれだけで片付けるべき事なのだろうか?

なぜ結果的に客が増えたか、あるいは増える可能性があるか。それは、店主の過去の積み立てを信じて、ネット上に投稿された記事について信じられないと思った人が居たからであったし、また実際に訪れた人に対して当初の記事が事実でなかったと思わせるに足る誠実さを実感させたからだ。店主からすれば、強く異議を唱える人が"たまたま"ネットにいただけで、運が良かっただけだと心から感じているかもしれないが、実際には運が良かったで片付く事ではない。それまでに真っ当な仕事をしてきたから、客観的に悪い出来事と思える出来事があっても、むしろ良い結果に繋がった。

人間万事塞翁が馬という言葉は、多くの人が好きな言葉に挙げている。しかし、私は今述べたような意味でこの言葉が嫌いだ。嫌いというのは言い過ぎかもしれないし、ある時点での断面で評価できない事は確実にあるが、とはいえ決して単純な運だけがその結果を生じた訳ではない。実力というのとはまた違った事だとは思うが、ある意味では「なるべくしてなった」事である。仮にそれが、"高級鮨店の店主の姿"というある種のステレオタイプによって、店主がそんな無茶苦茶な事を理由なくするわけが無い、と信じさせられた事で生じた結果であったとしても、「なるべくしてなった」事なのだ。

そのような事象を、端的にどう解釈するのが好きか。今の私は、この出来事をアンチフラジャイル性の発現だと思っている。

最初にアンチフラジャイルという言葉をきいたとき、「なんだこの言葉、頭がおかしいのか?」と思った。アクシデントと思える事象が発生したときに、普通は何らかのダメージを受ける。アンチフラジャイルと並列してよく話されたのは、フラジャイル、ロバスト、レジリエント、であった。イメージで言えば、フラジャイルは即座に壊れ、ロバストは堅牢ではあるにしても閾値を超えるとやはり壊れ、レジリエントは壊れずに柔軟・弾力的に耐える・復元されるという事である。耐久度や最終的な状態に差はあれ、いずれもダメージを受けている事にかわりはない。一方でアンチフラジャイルは、アクシデントで強化される。そこに耐久の概念はもはやない。

「そんなもの、そもそも定義からアクシデントが発生していないのではないか」と言えば全くそうだとは思うが、それは言葉の綾であって本質ではない。言い換えるならば、「あらゆる出来事が真のアクシデントではなく事態を好転させる出来事になるようにする」という事こそが、アンチフラジャイルの本質である。

何が起こっても、プラスになるようにする。一見、めちゃくちゃ馬鹿げているように思えるが、そうでもない。もちろん、巨大隕石の地球への衝突とか、太陽が膨張して地球を飲み込むとか、少なくとも今すぐ発生したら人類が絶滅するような事象は多く存在していて、言葉通りにあらゆる事象に対してアンチフラジャイルであるという事は不可能だ。しかし、メンタルモデルとして、「現実的に発生することが想像できる多くの事象について、それを前向きな"エネルギー"に変えられる構造を目指す」という事はとても有効である。

そのようなアンチフラジャイルの概念を、私がどうやって"信じた"か。私はアンチフラジャイルを理解するにあたって、初等的な力学モデルをよく想像していた。端的には、アンチフラジャイルの概念は"スロープのようなもの"あるいは"ジェットコースターのコースのようなもの"で説明できるのだ。

実際に説明してみよう。

物理的な話だが、エネルギーには向きはない。エネルギーは、それが物理的な力として作用する際には向きを持つものの、エネルギー自体は向きを伴う概念ではない。

私達が暮らしていると、様々な方向からエネルギーを持つ力、あるいは"弾"が飛んでくる。この弾を、うまく自分が仕事をしたい方向に向けられるか。自分が目指すべき方向に弾を飛ばす事ができれば物事が進捗するが、逆方向に弾を飛ばしたり、受け止めそこねたりしてしまうと、物事は進捗しない。

目指す方向が正面であるときに、弾は横からも前からも後ろからも飛んでくる。何なら上や下からも飛んでくる。この弾のエネルギーを殺さずに受けとめるにはどうすればよいかというと、"なめらかなスロープ"を用意して、弾のエネルギーを全く奪わずに向きを変えてしまえばよい。スロープと言われてもピンとこないかもしれないので、J字型やC字型のジェットコースターのコースに弾を投げ込んで、弾がコースに吸い付いて進む様子を想像してほしい。十分に重いコースは弾に対して仕事をしない、エネルギーを奪う事はないが、しかし弾に対して進行方向と垂直な力を各所で加えて、弾の向きを変える。

アンチフラジャイルの一つの本質はそういうことで、つまり外界で絶え間なく発生して降り掛かってくるエネルギーについて、うまく向きを変えたり蓄積したりすることによって、自分の進みたい方向に進むための推力とする。そうすると、重要なのはエネルギーが加わる事であり、降り掛かってくる当初の力がどのような向きであったとしても、それを推力に変換できればよい。そのような状態を目指そう、という事なのだ。

アンチフラジャイルであることは、決して考えなしで出来ることではない。少なくとも目指す方向があって、それを目指そうとして周りのエネルギーを加工する何かがあるから、アンチフラジャイルが成立する。「何か」は個人の単純な実力ではないかもしれないし、いわゆる運と形容されるものであったり、環境と形容されるものであったりするかもしれない。しかし、具体的な形によらず、それを目指すという思いや戦略、何らかの"構造"があるからアンチフラジャイルになる。少なくとも偶然ではないのだ。

実は、類似の事を表現する言葉は他にもある。例えば、「雨降って地固まる」という言葉だ。「災い転じて福となす」という言葉もある。アンチフラジャイル以外は小学生の頃から知っている。しかし、私はそれらの言葉によって「外界から降り注ぐエネルギーをすべて自分の推力に主体的に変える」というイメージは全く持てなかった。アンチフラジャイルという言葉にも、本来は主体的に変えるというようなニュアンスはない。単に、普通ならアクシデントと思える事象が結果的に成長を促すということでしかない。ただ、私は勝手に考えた力学的モデルによって、本来エネルギーに向きはない、つまり外界で発生する事象に本来は良いも悪いもなくて、それを結果的に良くできるか否かは自分自身の振る舞いなどの要素であって、「運といえば運だが、しかし偶然じゃない」と素直に思えるようになった。

メンタルモデルというのは意外と繊細で、「人間万事塞翁が馬」「アンチフラジャイル」「雨降って地固まる」「災い転じて福となす」のいずれも、似たような概念に言及してはいるが、しかし決定的に異なることがある。「アンチフラジャイル」は外力を受ける主体の性質、外で発生するイベントと切り離された性質の事を論じているが、「人間万事塞翁が馬」「雨降って地固まる」はイベントの性質なのか主体の性質なのかがはっきりしない。偶然なのかもわからない。「災い転じて福となす」は行為についての言及であって、なすというぐらいだから完全な偶然ではないのだろうが、これもやはり主体の性質や状態の表現ではない。偶然を超えた主体の性質に焦点をあてたとき、私ははじめてアンチフラジャイルを戦略・意図して目指すべきものとして認知できた。一つ一つの行為は「災い転じて福となす」なのだが、それを継続的にできる状態に意図的になる、という事なのだ。

言葉や概念を大事にするとは、多分そういう事の積み重ねなのだと思う。そうやって行動は変わっていく。"細かい違い"を大事にしたい。