年を重ねるごとに、時間が過ぎるのが早く感じるという。
大人と子供では1年が過ぎる体感が異なってくるのではないか。
よく大人と子供で比較されます。
大人は経験を重ね、生活がルーティン化すると日々新しいことに気づく機会は少なくなる。予測の範囲で生活ができる。安全、安心とも言える。
一方で、
子供は毎日が新しさとの出会いに溢れ発見と気づきの連続である。たまには、森に入ってクワガタに指を挟まれたり、あるいは、見知らぬ人の庭に侵入し犬に噛まれたりするかもしれない。予測の範囲が狭く、日々予測外のことが起きる。危険、不安定である。(参考:安全の反対の言葉は、「危険」、安心の反対は、「不安」と考えられます。)
このような、不安定さが、一種の気づきの連続を半強制的に提供している。そう考えると、不安定さも愛せるようになってくる。
話は突然変わる。
2023年が過ぎ、2024年を迎えてすでに2ヶ月が過ぎた。
現在2024年3月2日。
2024年も残すところ10ヶ月。年末からこの2ヶ月は、企業様の研修を毎週水曜日に行なっており土日含めてその準備に追われ日々それに夢中になっている。
新しい体験ではあるもののの、自分のこれまでやってきたアウトプットをもとに体系化して伝える作業なので、本質的に自分の経験してきたことの中からの気づきである。気づきの質にも色々種類があるのかもしれない。このあたりは整理したい。
気づき(発見といってもいい)があるとないとでは、人生の潤いが異なる。
気づきのある人生かそうでない人生か?
気づきは、知識にも左右される。
知識があるから気づけることも世の中には多い。
例えば、ファッションデザイナーであれば街ゆく人のファッションを観察して気づくことは多い。美容師であれば街ゆく人の髪の毛をみて気づくことがあるだろう。インテリアデザイナーであれば、ショップのインテリアの配置から気づきを得るだろう。ランドスケープデザイナーであれば、その街からの景観の気づきを得るだろう。
職業が変われば、世界を見る視点も異なる。
そしてこれは、職業というよりも知識によるところが多い。
勉強とはまさに知識を増やすことでもあるが、同時に、気づく機会の総量を増やす行為であり、気づく機会の総量は幸福に繋がる。
今日、みなさんは新たな気づきや発見がありましたか?
マンネリとは、気づきが少なくなった状態ともいえます。これは、潜在的に得られる気づきの総量に対して、実際の気づきの総量が減ったとき起こると言える。
ああ、しずかなインターネットは心地が良い。整理もしないまま、つらつらと文を書ける。支離滅裂の文ですが、それが人間らしさなんて言ってしまうくらいに自分に甘い。
言いたいことは、タイトルで言ってしまった。
気づきの研究は続けたいと思います。
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・気づきの量と質
・既知を深掘ることで得る気づきVS未知と遭遇することで得る気づき
・気づきの頻度(2024/03/04追記)
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以上です。