桃が食べたい。1年ほど前からこうぼやいている。
去年はなんだかんだと旬を逃してしまって食べられず。結局、スタバの桃フラペチーノで満足しちゃったんだっけな。
でもやっぱり、桃への強い渇望は捨て切れていない。ああ、桃…。
一人暮らしだと、果物を買うのに勇気がいる。量的にも一人だと多かったりするし。
といっても高くたってスーパーでは1000円前後だし、余ったら冷凍すればいいんだけどね。
どうしても食べたいなら買えばよかったのに、そこまでには至らなかった。
それはなぜだろうとよくよく考えてみたら、私が求めていたのは「桃」そのものではなく、「人にむいてもらった桃」だったのだと気づいた。
食後のまったりした時間に、桃むいたよと食卓に出してもらって、おいしいねと会話しながらのんびり食す。あの空間を含めての、桃への渇望だったのだ。
誰かにむいてもらった果物には、果物それ自体を超越した、また別の大きな価値が付加されるように感じる。
しかも特にやっかいな桃を、わざわざむいて切って用意してくれるだなんて「愛」そのものではないだろうか。
自分で果物をむいて、まるごと独り占めする。それも贅沢で素晴らしい。これも、いつかやりたい。
でも今は、誰かにむいてもらった桃でないと満足しないのだ。
桃を通じてやわらかな愛情を享受したいというのが、本当の望みなのかもしれない。
*
昨日恋人に、人にむいてもらった桃が食べたい!と駄々を捏ねたら「貴族だなあ」と笑われてしまった。
あんまり桃に興味がない貴方にわがままなことを言うけれど、今度桃をもっていった暁には、私のためにむいてくれやしないだろうか。
決して自分でむくのが面倒だからじゃないんだよ、決して……。