2025年も暮れ、あれこれと振り返っていたが、今年は誰の目にも生成AIが世を席巻していたことは明らかだったのではないだろうか。
無断学習による著作者への損害やハルシネーション、AIの高性能化に対して大多数の人間のリテラシーが追いつかない状況はしばらくは解決されそうにない。そのうえどんなに使いたくなくてもあらゆるサービスが向こうから高いコストを厭わずAIをねじ込んでくる、仕事の場面に至っては生成AIを使用する前提の生産性を求められるという有様だ。もはや逃げ場がない。
私は今も生成AIを完全に肯定してはいないし、まだまだ問題も拒否感も残るが、生成AIとはどうにかして共存の道を探らなければならない局面に差し掛かっているのは揺るがない事実だ。だから秋頃から考え方を変え、せめて自分のためになる使い方を探っていこうと方向転換した。
なお、イラストの無断学習・無断生成問題は深刻であるという認識だがここでは論じないものとする(とても扱いきれるものではないので)。
新時代の到来?
現状を「AIが登場して便利な世の中になった」とまとめるには問題が多すぎる。
自分の身の周りを見ても、企業ではすでにAIが吐き出した成果物のエビデンスチェックを人間に担わせ、問題がなければ商品棚に並べている。非プログラマーが生成されたままのPythonコードと生成AIを組み合わせて商品を自動生成するツールを作り、業務指示でさえ「自力でできなくてもAIを使って作るように」という質のものに変わりつつある。(表向きにはあたかも専門家が作っているように喧伝しているが、その辺は問題にならないのだろうか?)
従来は人間が技能を習得し全行程を繰り返して行うことで蓄積と学習が行われスペシャリストになれるところを、このフローでは賃金以外に得られるものがぐっと減ってしまう。一方で、勉強をしなくても専門の技能がなくてもそれらしいものが作れるので、スペシャリスト謹製じゃなくていい「それらしいもの」程度の精度をもとめるのであれば生成AIの躍進は企業的に万々歳なのだろう。
デザイナーがクライアントのニーズを丁寧にヒアリングして訴求力のあるデザインに落とし込む職人の仕事をする一方で、その仕事を評価する能力がない企業は6本指の人物の絵を生成して世に出せばいいのである。それが当たり前になればもはやデザイナーの専門性、ひいてはデザインや設計の意義そのものが社会からどんどん剥落していく。属人性がなく誰でもできる作業だから人間の賃金も最低限でよくなるだろう。
これだけを見るとこの方向性は実は原始的な生命や動物の生存戦略に似たような形で最適化されているのかもしれない……とも感じるのだが、私は自我と個性のある人間として生まれたので、それを手放すことに強い抵抗があるし、NOを突きつけたい立場だ。推進派の人々は何もかもを生成AIに頼り、自分に何の専門性も蓄積されないことを許容できるのだろうか、と感じることが多い。私は自分で要約されていない本を読んで理解したいし、思い描いた絵を手を動かして思い通りに描きたいのでそうは思わない。
また、生成AIの隆起以降、目にする情報が出鱈目なものではないのかと多角的な検討をしなければいけない場面が増えたと感じる。レポートを受け取る教員や企業の採用担当などは顕著だろう。
多くの人が生成結果を無批判に使用した結果、一介の市民でさえ爆発的に認知負荷が上昇し、楽になるどころかものごとを体系的・本質的に理解しようとすればするほど摩耗していく。
ITに関する基礎的な知識を身につける必要性にはじまり、口に入れたものを今までよりもよく噛まないといけない手間が増えた感覚だ。
どう付き合うか
前述のような無批判な使い方や生成物を盲信していれば人間は衰えていく一方だが、クリエイティビティではなくサポーターとして活用する道ならば共存できる気がしないでもない。
たとえば私は中国語を身につけるため、GPTに自分が何歳までどのような言語環境に身を置き、現在の中国語の各技能がどれくらい残っているか、何を難しいと感じるかを詳細に書き出して読ませたことがある。それを踏まえてこの先どのように学習を進めていけば身につくかを提案させた。条件を整理して分析する中で自分でも見落としていた特性がわかり、それが通常の学習法が合わないと感じていた要因だと発覚してかなり腑に落ちた。GPTは忖度はするものの、自分からは見えにくい自分のことを並べて分析するのには使えるかもしれない、と感じることがある。
また、感情と切り離せないような日常の延長線上にあるテーマ たとえば 組織維持における挨拶の公益性(挨拶が活発だと集団にとってどのようなメリットがあるのか)、知人がした本当につまらない会話はどこがどうつまらないのか分析してほしい(つまらなすぎてムカついているため)などを考えるときに自分で立てた仮説を打ち込み周辺情報の補完させる使い方もある。大事なのは「〜はどうして?」と聞くのではなく、「私の考察では〜〜だが、誤謬や補足情報があれば述べるように」という態度をとること。GPTは大抵ひと言目には「鋭い視点ですね」などといっていい気にさせ、最後に「よろしければ〜〜な点も深掘りできますよ」と言うが、そこで生徒役に回らずまた自説を入力する。こうすれば少なくとも思考停止で生成物を受け入れるだけになることはないだろう。
ちなみに前節にある「労働における脱属人化は動物の原始的な進化選択の最適化に似ている気がする」という感想を理由付きで投げたところ、GPTは「人間社会の脱属人・構造化は退化としての原始化ではなく再発明による原始的戦略への回帰と解釈できる(これは深山による要約)」と返答し、それぞれのメリットデメリットを述べた上でどのような線引きが理想か気にならない?と投げかけてきた。人間相手に午前3時半にこんなチャットを送ってもすぐには返ってこないが、数秒あればここまでやれるのだから、精神的に依存している人が現れるのも理解できる。
まだまだ模索段階ではあるものの、基本的に考えることと出力することは自分がやり、その完成度を高める役割を課すといいのではないか、というのが私の考えだ。実際に使っていると自分で考えた内容と生成された内容の境界はすぐに曖昧になるし、気づかないうちにGPTの吐き出した内容に染まってしまうこともある。そんな自分に気づくたび己はここまで弱いのかと頭を抱えるが、軽くも重いこの頭をこの先も使い続けなければならない以上、道具の使い方はよくよく考えたいところだ。
また、ここまであまり触れてこなかったが、根本的な問題として生成AIの莫大な電力消費及び環境への負荷は無視できない。SDGsアクションを一度でも掲げた企業がAI活用を謳う姿は実に滑稽と言わざるを得ないし、そのことに気づいて意図的に生成AIの使用を抑制できたとき、本当の意味で人類はAIを適切に扱えるようになるだろうと思う。
果たして生成AIは人類を堕落させる悪魔か、それとも有能なパートナーたり得るのか、この先も注視したい。