日報_2025年12月18日

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公開:2025/12/18

やったこと

考えていること

社会化という言葉をずっと考えている。

「普通」について「ありもしない」と形容詞がついているのをよく見る。ありもしない普通、枠組みに押し込めるのはやめよう!ありもしないものなんだから!みたいな。

でも、「ありもしない」から厄介なんじゃないか?

確かに「普通」というのは厳密に定義できない。強いていうなら社会福祉が設定しているラインと言えるかもしれない。でもそういう定義をしている人は多くいないだろう。多分人それぞれ定義が違うはず。

「普通」はありもしないもの、でも「ある」と強固に考えている人がいる。それが面倒なんじゃないだろうか。もう信仰みたいなもので、「ある」と思うことが大事みたいな世界観なんじゃないの、そういう人たちって。ありもしないからこそ、「ある」んだと思うことに意味がある人なんじゃないの。

そういう人がもし少なからずこの世界にいるのであれば、「ありもしない普通なんて」と叫んだところで、他の誰かが窮屈になるだけなんじゃないかなーと思う。わたしは優しいので。

社会化どこ行ったって?もうちょっと聞いてくださいな。

社会化されていない個を出していこう、と小説指南本に書いてあったんだけど、よく考えたらわたしはむしろどうにか社会化されたくてものを書いているのかも?と思い始めた。

旧Twitter以前からブログやなんやらで自分の考え事を文字にしてインターネットに起き続ける人生だった。わたしはこれを、ネットの海にボトルレターを流す感覚でやっている。誰かに宛てたものでもない、誰も受け取らないかもしれない、でも少なくともわたしの手からは離れていく。それを求めて流し続けている。

なんでか。

もう自分の手に余るからだ。

コントロールできない違和感を、思考を、なんとかコントロールすべく文字にして、ときには誰かの物語にすることでより距離を置いて、どうにか飼い慣らそうとするけど出来なくて、最終的に付き合いきれなくなるから放流する。

その瞬間、そのアンコントローラブルなものたちはわたしだけのものじゃなくなり、広くネットの海の要素の一部になり、もしかしたら拾った誰かのほんの一部になる。そのことにわたしは安堵する。わたしのものだけでなくなることが嬉しい。

私が考えている、考えざるをえないことを、他の誰かも考えてくれたら嬉しい。一人で考えているなんて気が狂いそうだから。一緒に何かをしたいわけじゃない。共感して欲しいわけじゃない。ほんの少しだけでいい、わたしの抱えているものを味わって欲しい。それで言ってほしい、たいしたことじゃないと。そんなのありふれていて、それでもみんな生きていて、それで地球は回っていると。だからきっとそのうち大丈夫になるよと言ってほしい。

矮小化されて冷笑されて安心したい自分がいる。

社会化したい、社会化されたい。こんな自分を一人で抱えてこの複雑な世界を生きることが心許なくて仕方ない。

多分これがわたしの一番弱いところなんだろう。

そしてこう言う弱い自分の宥め方で、効果的なものを書くこと以外見つけられないでいる。辛い時によく聞いて勝手に励まされていた曲のフレーズを自分で弾いても、自分を慕ってくれる猫と一つの布団で眠っても、格闘技の試合でリングで自分しか見ていない対戦相手と対峙しても、自分を取り巻く全てを遮断して不安に飲まれる自分に触れることすらできない。

書くのだ、と覚悟を決めてその濁流に飛び込んで初めて近づける。

誰も大丈夫だなんて言ってくれない。それこそ「ありもしない」ことだ。でもたぶん、5年後の自分は言ってくれる。「全然大丈夫になってないし、飼い慣らせていないけど今楽しいから、大丈夫」。それだけはあると思うから、あると思うことに意味はあるだろうから、やっぱり書くしかないんだわな。

それでいいじゃんと言うことにしておいてくれよ。

なあ。

今日の曲

世界は君のもの/a flood of circle

https://music.youtube.com/watch?v=u3wKvCt-NmE&si=G46ciJfhOn14dj64

申し送り

- 病院に行け

- 明日も足首が本調子じゃなければジムで走れ

@45yoko
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