飲み会から帰ったら、旦那が洗濯をしてくれていた。
我が家の洗濯担当は私だ。別に旦那が洗濯できないわけではない。私が皿洗いを忌避するあまり、自然と担当が別れてしまっているのだ。否、家庭内分業ができていると言ってくれ。悪いことではないのだから。
私は旦那のパンツの在庫がゼロにならないようバランスを取りつつ洗濯を回すし、旦那は自分が苦にならないようタイミングを見て皿を洗う。各自の担当分野に口を出すことはほとんどない。少なからず「やってもらっている」意識が互いにあるからだろう。
その上で手を出すことはしばしばある。私の機嫌が良ければ皿を洗うし、旦那の機嫌が良ければ洗濯を回す。それが今日だった。
会社の懇親会でソフトドリンクだけを飲み、ご飯は美味しかったけどつまらない話を聞かされ、嫌な噂も聞き、自分の将来へ不安を感じつつ5パーセントほどのへこみを抱えて帰宅した私に旦那はこう言った。「俺ね、洗濯したの」
この台詞だけ聞くと大人としてどうなんだと世の人は思うかもしれない。違う、全く違うのだ。ワイヤレスイヤホンを外し、耳をかっぽじってよく聞け。
我が家では「察してくれ」は通用しないことにしている。何故ならば我々人類は未だにテレパシー能力を獲得していないからだ。言語を使え、身体で示せというのが我が家の方針だ。それゆえ「褒めて欲しいことがあれば主張しろ」というのも方針だ。旦那はその方針に則り、私に言ってきたのだ。「俺ね、洗濯したの」
それを言われれば、私はもう褒めるしかない。言われなくとも褒めるが、それはそれはもう褒めて褒めて褒めちぎってちぎるしかないのだ。素晴らしい。自分で洗濯物が溜まっていることに気づき、下着とタオルをより分け、洗濯を回し、干し、それからゲームをしていた。なんという天才的なスケジュール管理能力。そしてそれを控えめに主張してくる愛らしさ。ブラボー。本当に君は身長180の成人男性なのか。私にはボールを取ってきた大型犬に見えるぞ。パーフェクト。スタンディングオーべーションだ。
すごいすごいと褒めちぎると、満足そうに旦那はゲームに戻っていった。面白い男だ。またひとつ旦那の良さを再認識する頃には、飲み会でのもやつきなど消え失せていた。おかげで最高の夜になる。