悲しい話をします。
私は祝福されて生まれてきたのだと思います。祖父母や叔父叔母、今は負の感情しか抱いていないような父も、少なくとも私が生まれた瞬間は祝福してくれていたと思います。
ただ、その前に望まれた子どもだったかと言われるとそうではないとも思います。
私が生まれなければ父と母は結婚しなかったとそれぞれから別々のシーンで、しかし二人とも同じくネガティブな意味で恐らく本音で言われたし、弟たちを見ていても、私が生まれなければこの人たちがこんな思いをすることも無かっただろうとよく思っていました。離れて住んでいる今でも思います。
悲しい話ですが、事実は事実なので、正直なところ悲しさ自体はあまり感じていません。
また、間違っているとも視点が歪んでいるとも思いません。母や弟たちからすれば別の視点もあるでしょうが、私からの視点の一側面はこうだという事実であることは変わりません。
その上で、自分が子どもを授かり、産むことに他の人より不安を感じている自覚があります。
生まれたことを祝福はできると思います。生命の神秘は貴いものだし、そう目にかかれるものでもないので、祝福できると思います。
ただ、望んで産むかと言われると、すんなり頷くことができない。
私は旦那に父親を経験して欲しいし、義父母に祖父母になることを経験して欲しい。それは望んでいる。
その前提として、私自身が母になることを望んでいるかと問われると、頷けない。このことが本当に申し訳ない。誰に対しても、子どもに対しても。
頷けないが否定もできない。ほんの1パーセントくらいは母親を経験してみたい気持ちがある。だけど残りの99パーセントがあらゆる全てをリスクや恐怖、不安に捉えるから頷くことができない。
そんな不誠実な人間が不誠実なままで子どもを授かること、それ自体が何よりも不誠実ではないかと思っています。世の中のどれくらいの人が望んで、あるいは望まないで子どもを授かるのか、そんなことはどうでもいい。私が、自分自身が不誠実であることを許せないだけです。
このままだと私は、自分は望んでいないけど、旦那や義父母のために子どもを授かることになる。改めて文字にしてみると、本当に怖い話です。
この不誠実さに対して、せめて私が出来ることは何か考えたとき、もし生まれて来れたなら、祝福に対して誠実に向き合って育てること、それしかないなと思いました。
不誠実に望まれ、生命として祝福され、誠実に育てる、それくらいしか私にはできない。怖さから目を背けながら震えを殺してそう思っています。