さようなら閏年

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「あんたのことは自我とかアイデンティティがちゃんと出来るまでは中国で育てれば良かったね」と、この間しみじみと母に言われて、不覚にも笑ってしまった。

 

私は幼少期に中国に長期滞在しており、日本語を忘れてしまっていた時期もあったくらい適応して育っていたので、もともとの感性の根っこは向こうにあるのではないかという気がしている。

それから高校まで1年に1度ほど数ヶ月帰省する生活だった。

幼少期の記憶や思い出のほとんども、中国でのことだ。

昔はそれが嫌だったのだけども、嫌なことほど覚えていると言えばそうだし、楽しかったこともかなり覚えている。

日本にいる父方の親戚よりも、中国にいる母方の親戚、ないし中国から日本に帰化した親戚との交流のほうが圧倒的に多く、墓参りや結婚式、年度末の行事に関しても日本より中国様式のほうが馴染みが深い。

人並みに冠婚葬祭にも出る機会もあったはずなのに、日本の文化には未だにどうにも慣れずにいる。不思議なことだが。

生まれは日本で、戸籍も日本で、名前も扱う言語も日本語だけれど、生粋の日本人だと胸を張って主張できたことがなく、思ったこともない。

かと言ってハーフであることをことある毎にアピールするのもなんだか違う。生粋の中国人であるとも思っていないし、独学でしか文化を知らない。

そんなことはどうでもいいと思ってくれる人はとてもありがたいのだが、個人的なことを言うと、日本で平和に日常を過ごすのなら出自は極力隠したい。

あることないこと言われて面倒なのを散々経験したし、こちらから言わなくても嫌でも耳にするからだ。

そういった人たちの前で、わざわざ該当の国の出自ですと明かすことで自分から的になりにいくような趣味もない。

素直に興味を持ってくれる人のことは、純粋だなぁとも思う。

そしてその純粋さから来る無知を正すことも、時折、とても嫌になる。

自分という存在が危うくなることの原因の一端がこの部分にあるのは分かっていて、そういった居心地の悪さと隣り合わせの中でこれまでを過ごして来た。

だからこそネットでくらいは羽を伸ばしたい、あけすけに話せることは話したい、とも思ってしまう。相反している。

 

中国には、動物愛護のような法律がない。

野良犬、野良猫についさっきまで餌をやっていたとしても、邪魔だと思えば蹴ったり叩いたりして追い払うのが普通だった。

今ではどうかわからないし、私はそういったことをしたことがないけれど、向こうに居れば見慣れた景色でもあるので、身内がそういう行動を取っていても「仕方ない」ことでしかない。

可哀想だと思う人や止めるような人は、周りには存在しないからだ。

乞食もそうだ。観光地の銀行から出てすぐ、私の背の半分くらいしかない年端もいかない子どもが財布に群がってきても、空気となんら変わらない。一度許してしまえば次から次に集られるだけなので、ただただ素知らぬふりをする。

日本に居る時はどうしてそんな酷いことを、と思うのに、そんなことをする人が少ない日本でその過酷さにずいぶんと慣れている自分もいる。

向こうでは当たり前のことが、こちらでは当たり前ではない。逆もしかりだが。

そういった差がたった一時間の時差では埋まらないほど多くあって、ただただ「そういうものか」の中を漂っている。

@4nonaka
『その時はそう思っていた』