今日も体が重くてずっと寝ていたかったけど、洗濯を2回回さないといけない……と思って気合で起きた。
米津玄師のインタビューを読んだ。
女性の地位向上については、自分が男性であるがゆえにより慎重に見つめなければならないというか、自分の身ぶり手ぶりがそこになんらかの不利益をもたらすようなものでありたくはないと思うんですね。なので、どういう形であればそれが可能になるのかを考えたときに浮かんできた「がんばる君へエールを」という方法だと、逆に女性を神聖視するような形になるんじゃないかと思った。自分の性質上、対象をある種のミューズのように扱う形になりそうな気がしたんですよね。でもそれは、結局“裏返し”でしかない。神聖視するのも卑下するのも根っこは一緒な気がする。
とか、
強さとは何ぞやと考えたとき、そこはキレなきゃいけないよなって。どうあがいてもキレる必要がありますよねということを、この曲に宿すべきだと思ったんですよ。初の女性弁護士として、獣道をかき分けながら、先頭に立っていろんな道を整備してきた人たちの生き様を振り返ると、そこには並々ならぬエネルギーがあったんだろうと思うんです。お行儀よく、誰の気分も害さないような、優等生的に機会を待って様子を見ながら生きてきた人では決してないと思う。むしろ「知るか!」と言って、「私はこうありたいんだ」ということを人に示す力がある人たちが、そうやって道を切り拓いてきたような気がするんです。その大きなエネルギーの1つが“キレ”だという。そのエネルギーはこの曲に宿すべきだと思ったんですよね。
とか、あとジェンダーやセクシュアリティの面では、
主語も曲によって変わって、「私」と歌うときもあれば「僕」のときも「俺」のときもある。自分がそういう人間なもんで、相手もそういうところがあるだろうなと思うんですよね。今こうやって目の前で話をしている人間はこういう人であるという、そのことを確認し合いながら関係性は続いていきますけど、明日になったらコロッと全然違うやつになってるかもしれない。そうなったときに、なるべくそいつをコントロールしたくないんですよ。ちゃんと他者性を認識したうえで相手と付き合うという。それは自分にとってすごく重要だと思う。「あなたってこういう人だよね」と限定したくないんですよね。別に目の前にいるあなたがあなたじゃなくなってもかまわないけど、あなたが今いるから私の人生楽しいですよっていう。その繰り返しだと思うんです。そもそも人はコントロールできるもんじゃないし、コントロール不可能な部分をいかに認めたうえで生きていけるかというのは、ものすごく重要なんじゃないかなって。
など、引用しだしたらきりがないくらい面白かったし、米津玄師って全然曲もその人となりも知らなかったけど、結構ジェンダーの面で信頼できる人なのかな?と思ったりした。わたしが「さよーならまたいつか!」で気になっていた恋愛の歌詞の意味ついては触れられていなくて、こんな意識を持った人が、ドラマのフェミニズム的な面を汲み取って描いた歌詞で、何故恋愛をサビに持ってきたのか?というところが更に際立って不思議になった。なんでなんだろう、話が進んだらまた明かしてくれるだろうか。
午後からは図書館でボランティアをしていたんだけど、冷房が入ってなくてかなり暑かった。立ったりしゃがんだりしたので、怪我をした方の膝がちょっと怪しい。今日はシャツの上に薄手のニットベストを合わせていたけどそれだけでも暑くて、明日は更に暑いからもう半袖でもいいかも。
今日の晩ごはんは、家族の買い物の内容次第だけど、できたらビーフンが食べたいな。昨日から食べたくて、もう口がビーフンの口です。ビールが飲みたいけど、今日疲れたので早く回るだろうし、明日も出かける予定があるからやめておこうかな〜。飲みたいな〜。