私は孤独と対峙している人が好きだ。届いたばかりの星野源さんのエッセイ「いのちの車窓から」を読みながら思った。
愛情が足りないと抱えるさみしさではなくて、人はひとりひとり別物だ、どこまでいっても一つ一つ別の個体なのだと知っている孤独。
私自身も若い頃はさみしさを抱えていた。わかってもらいたい、人肌が恋しい。それを友情や恋で解消しようとしてきたけれど、結局、私はどこまでもひとりだ。
20代の頃、友人に質問したことがある。「恋人や友だちといても、さみしいって感じることはない?」「え〜そんなのないよ」と笑われた。
結婚したら、子どもができたら、さみしさは消えるのかもしれない。そう考えたこともあったけれど、自分の家族を持ち、子どもを2人産んでも、私はひとりだ。私の体から出てきた息子たちですら、私とはまったく別の個体で、彼らには彼らの人生がある。
結局、私はどこまでもひとりなのだけれど、人の行動や気づかいや言葉に心を動かされる。私はその感受性を失くさずに、いたい。
海の深くからキラキラする海面を見つめている、私はひとりなのだけど、海はどこまでも繋がっていて、どこかに誰かがいるのだ。
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そんなことを日記に綴っていたら、ほぼ日手帳のコラム欄に共感できるものが載っていた。
『作家って、無頼派と言われるような人もいれば、円満な家庭人もいたけど、おしなべて「孤独である」というところに関しては、共通するものを感じます。人間の根源的な孤独を感じさせるというか。だからこそ、誰かとつながる細い道を、探し求めている。そういう人たちなのかなあ、と。その思いを受け止めてつなぐ手伝いをする。それが編集者の役割なのかなと思います。』河野通和さんが『編集とは何か。河野通和さん篇』の中で