「かばん」2023年12月号で特集が組まれていて、自分でも読んでみたいなと思い遅ればせながら購入。(特集、すごく良かった。編集に携わった皆さん、お疲れ様でした&ありがとうございます)
『義弟全史』、読んでみると「なんだこれ……」という感じが強く、読み終わったのは少し前なのだけど、今も「なんだあれ……」と時折思い出しては反芻し続けている、みたいな歌集だった。珍味の感想か?
……というだけではさすがにどうかと思うので、「わかろうとして自分なりに解体してみるのも勉強」の気持ちで、感じたことや考えたことを書き残してみようと思う。
おままごとのサイズ感
『義弟全史』にはたびたび家族が登場するが、そのサイズ感がおかしい。
てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる
おとうと、ちっちゃい。(しかも、無邪気に手を振ってくるせいで主体の行動が制限されるという。ちょっと怖い)
少年の頭ほどあるマスカットガムをかかえて立っている姉
マスカットガム、でかい。と思ったが、他の歌を読み、ガムがでかいのではなく姉がちっちゃいのか、と思い直した。
ひとつだけほんとの父を入れてあるマッチ箱から取りだすマッチ
父もちっちゃい。「ほんとの父」があるということは偽物の父も……?
全編通して、家族のサイズ感が「バグって」いる。熱あるときに見る夢ってこういう感じかも……とか思いながら読んでいたのだが、読後には「ミニチュア人形を見ている目線のようだ」と思い直した。サイズがミニチュアに変わってしまうことで、途端に意思の疎通ができない別の生き物みたいに感じられる効果がある気もする。(いや、別に同じ人間同士なら意思疎通できるってものでもないんだけど……)
ちょっと飛躍するなら、家族なんて全ておままごと、なのかもしれないとも感じた。「おとうと」も「姉」も「父」も、ごっこ遊びの役割にすぎない。なのに主体は、私たちは、その枠組みにとらわれている。そのことを笑うかのような。
そういえば、ダイレクトに「ままごと」という単語が入った歌も収録されている。
君のこと嫌いといえば君は問う ままごと、日本、みかんは好きか
ナショナリズムと戦争の気配
先の「ままごと」の歌もどことなくそうだが、太平洋戦争の気配を感じる(というか、連想せざるを得ないような要素を含んだ)歌も随所に散りばめられている。
しのびがたきをしのんで僕のこんにちはこんなに遅く出てくる子供
「忍び難きを忍び」は、玉音放送のあまりにも有名な一節。
ペットボトル神社ができたみずうみに浮かべて東京万歳をした
神社と、万歳。
タクシーは止まったよなぜ手を挙げたままなの皆泣いておるぞ
「皆泣いておるぞ」は、二・二六事件の「下士官兵ニ吿グ」か。「オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」。
これらの歌はすべて「戦争当時」を詠んだものではなく、イマココの日本を詠んでいると感じた(だってペットボトル、当時にはないし……)。
こういう歌が、なんでもないような顔で髄所にふっと挿入される。だから、出会うたびにドキッとする。というか、私はむしろ、「出会ったことにも気がつかずスルッと読んでしまっているかもしれない」ことにどきっとした。戦前は戦前の顔をしてやってきてはくれない、みたいな話である。
実際に、一読目にはスルーしていた歌がある。今「戦争さがし」の目線で改めて歌集をめくっていたら、結構なことを言っていてちょっと肝が冷えた。
だれしもが早くおとなになりたきにごきぶり殺せいいから殺せ
理解できないものとの邂逅
先の「いいから殺せ」の歌もそうであるように、この歌集には虫がいっぱい登場する。私は虫が苦手(すみません)なのだが、なぜ苦手かと聞かれたら「全然理解できないから」と答えることにしている。
特に苦手なのは蛾や蝶のたぐいなのだが、奴らはなんかもう、本当に何考えてるかわからんを動きをするのである(※個人の感想です)。蛾なんてなんの脈絡もなく道端に落ちているし、蝶なんてこっちが頑張って避けようとしてもふにゃふにゃ突進してくる(※個人の感想です)。聞けば奴らはさなぎの中で一回全部ばらばらのぐちゃぐちゃになっているという。何を考えてんだ。いや、そもそも何か考えてんのか?意味がわからなすぎる(※個人の感想です)。
……というようなことを思いながら収録された虫の歌たちを眺めていたら、当然の一般論としてふと帰結するところがあった。「理解できないものは気味が悪い」のである。
ミニチュアの家族はまるで意思の疎通ができない、理解できない別の生き物みたいだ。意味ありげに、サブリミナル的に挿入される戦争の歌はまるでテレビ画面の乱れのように、「ん?今なんかあった?」という不気味なノイズとして思考に焼き付く。
作者である土井さんはきっと虫がお好きなのだろうと拝察するので「理解できないもの」のたとえとして虫を引き合いに出すのはさすがに不適切な気もするが、ともかくそういう「理解できない何かと邂逅したときの薄気味悪さ、不穏」がこの歌集の根底に這っているように感じられた。
そしてこの歌集で最も理解できない存在といえば、タイトルにもなっている「義弟」だろう。
義弟とは誰なのか
タイトルにまでなっている癖に、本の中にヒントがなさすぎる存在「義弟」。平井弘さんによる帯文に書かれている「義弟とはだれなのだろうか」という問いが、読み進めるあいだ私の脳内をめぐっていた。
義弟らは火を点されて夏の夜の淡島通りを行進したり
みなひとつ蟹をぶらさげぼんやりと義弟ばかりの乗り込む列車
「義弟」と呼ばれてこそいるが、少なくともそのままの意味の義弟ではなさそうだ。明らかに複数(それも「行進」「みな」という言い回しから見るに結構な数)だし……なんか生気も感じられないし……(それはほかの「家族」にもある程度共通しているけど……)
これは人(でかい主語)特有の、点と点を見せられると思わず線で繋ぎたくなってしまう性分ゆえだと思うのでご勘弁いただきたい部分もあるのだが、歌集を読み終えた今、義弟とは、私たちのことではないか?と私は感じている。
「点されて」という、「義弟」側にあまり意思がなさそうな受動態。(穿った見方かもしれないが、「火」「行進」という単語の連なりもどことなく「戦」に近しいと感じる)。それもそのはず、義弟はみな「ぼんやりと」しているのだ。行進をする義弟たちは、列車に乗り込んだ私たちは、果たして何を考え、どこへ向かっているのか。いや、そもそも何か考えているのだろうか。
ひからびた義弟たちを折りたたむしごとさ 驚くよ、軽すぎて
さなぎの国
……と、思考がトリップして振り出しに戻る、を繰り返しているので、私の拙い理解力・言語化能力ではこのあたりが限界なのかもしれない。
ただ、総括として、「さなぎの中なのかもしれない」と思った。
あえて超でっかい主語をとるなら、家父長制、あるいは国家。そういう大きな枠組みが今まさにさなぎの中でばらばらのぐちゃぐちゃになってゆくところで、だから家族は歪んでミニチュアの形になるし、歴史がオーバーラップするように戦争の気配が漂うし、さなぎの中の体組織のひとつである義弟(≒私たち)は、目の前を流れてゆくそれをぼんやりと眺めることしかできない。気味が悪いような、そのくせ妙に心地いいような、誕生前のような、死後のような。その曖昧さはまさにこの歌集に漂う空気感で、もしかするとそれは「さなぎの中の混沌」なのかもしれない。
私たちが形作っている(いた)虫は、いずれ別の何かに姿を変えて、たぶん羽化するのだろう。それがどんな形の虫なのかは、「正しい」形になれるのかは、そもそも羽化できるのかは、さなぎの中に居る私たちには知る由もないけれど。
最後に
果たして自分の感じことを言語化できているのかはいまいち自信がないが、この歌集を読んだ人が点と点をどう繋ぐのか(あるいは繋がないのか)、いろんな人に尋ねてみたくなる一冊だった。
最後に、特に好きだった歌をいくつか挙げて終わりにしようと思う。
遺書にさえヴァリアントあり人のすることはたいがい花びらになる
犬に待てする姿にて春の野に大仏だけが立たされている
僕ら皆どうやら別の街のこと話しているね、同じ顔して
了