評にチャレンジ
12月は半年に一度の特別号。力の入った連作が多かったので、自分なりに力を入れて評にチャレンジしてみようと思う。
夕立の中で抱き合え一瞬の痛みのような水平線だ / 青木俊介
一読してかっこいいなーと感じた。「夕立の中で抱き合」う、という行為にはただならぬ激情を感じる。水平線は、空と海を分かつところ。それは決して混じり合うことのない一線で、夕立の中で激しく抱き合うふたりも決して本当の意味でのひとつ(一個体)にはなれない。だからこそ夕立のように、噛み付くような強さで抱き合いたいときが人にはあるのかもしれない。
「抱き合え」という命令形、「水平線だ」という断定がこの歌のかっこよさを決定づけている。「一瞬」「痛み」と続くi音が鋭く横に走るイメージをまとい、まさに日が沈む間際に強く輝く水平線のような、刹那的な切迫を感じさせる。
みずうみに雪のかけらが落ちてゆくこんな僕にも見せようとして / 土井礼一郎
雪が風に舞い上げられて、ひらりと舞う景色を思い浮かべた。雨は一直線に落ちてゆくが、「雪のかけら」はそうでない。翻り、踊り……確かにその動きは、まるで意思をもって誰かに「見せようとして」いるように感じられる気がする。
しかし当然ながら雪に意思などなく、すべては「僕」がそう捉えているだけの話だ。「こんな僕にも」という言い回しから想像されるちょっと卑屈な主体。こんな僕にも「見せようとしてくれて」申し訳ないような気持ちなのか、こんな僕にまで「見せつけてきて」なんかちょっとヤだな、みたいな気持ちなのか。なんかどっちも少しずつわかるし、どっちもありそうな気がした。
俺以外の人とヤつたといふことを知りたる後は赤し 夕暮れ / かぱぴー
自棄酒の「自棄」といふのが気に入らぬ 棄ててつたのは君の方だろ / 同
おそらく付き合っていた恋人に「棄て」られた、「俺」の心情をなげやりに歌った連作。どちらか選べなかったので2首引いた。
ひとつのショッキングな出来事(たとえそれが架空の出来事であったとしても)にまつわる生々しい感情について何首も費やすのは、実は作品作りとしてかなり難しい、と私は思う。受け取る側が途中で「はいはいわかった、もういいよ」みたいな気持ちになってしまうからだ。が、この連作は読んでいてその飽きが来なかった。ある種めちゃくちゃ世俗的な話を格調高い文語調でされているから、というのは「タネ」のひとつとしてある気がする。口語だったらここまで刺さらなかったかもなあ。
スロット屋の自動ドア遠くひらく時ざあざあ降りと思う一瞬 / とみいえひろこ
連作全体が好きだったが、一首選ぶならこれ。街にいてパチスロ屋のドアが開くとき、にぎやかな音が洪水のように押し寄せて、けれどドアが閉まるのに合わせてすぐに消え去る。街のざわめきだけが残る。確かにその様子は夕立の唐突さ、激しさにどこか似ている。
「自動ドア遠く」は声に出すと「じどーどあとーく」。自動ドアがぬーんと開くときのあの間延びした感じが、長音と字余りでねっとり表現されている。反対に下の句の「ざあざあ降り」は、切れ味良く感じる。こちらも「ざーざー」で長音となるが、それよりもz、bの濁音の印象が強い。それがパチ屋のあのノイズのような音ともうまく噛み合う。下句が小気味良いのは、定型なのも関係するか?直感的な景でありながら非常にテクニカルだ、と感じた。
マンションの右肩すこし明るんで恥づかしさうに出てくるんやな / 久保茂樹
直前の歌で「ゆふぐれ」が登場するので、この歌も都市の夕暮れと読んだ。立ち並ぶビル群は常に日照があるわけではなく、陽のあたる時間がそれぞれ限られている。太陽が動き、コンクリートジャングルの影から西日に照らされたそのマンションが姿を現す。壁面を橙色に輝かせて、どこか「恥づかしさう」に。ありふれた、しかし叙情的な光景。
擬人化の妙。連作を通して文語調、かつ京阪式の言葉遣い(適切な表現ではないかもしれないけど……)が独特。「出てくるんやな」のまろやかな響きが優しく、京阪式アクセントネイティブの方が音読するところを是非聞いてみたい作品。
雪をかき雪をかいては雪は降る生きさえすれば雪はまた降る / 本屋彩折
気持ちの良い韻律。豪雪地帯に暮らした経験がないので想像になってしまうが、きっと人力での雪かきなど到底追いつかないほど次から次へと雪が降るのだろう。主体はそのことに辟易している。かいてもかいても際限なく降る。一首の中に「雪」が4回も登場するくらいには降る。
拡大解釈すると、それは人生における「嫌なこと・面倒ごと」にも通じるかもしれない。生きている限り「雪」が止むことはない。が、私は、この歌にどこか希望を見出してしまう。「生きさえすれば」明日はまた来るのだ。雪の降るどうしようもない日の繰り返しであっても、仮に望んでいなくとも、日々の営みは積もってゆく。生きさえすれば。
これは搾取だと気づいて大声を上げた新宿のトイレの個室で / 嶋江永うみ
ここまでに分かれ道とかなかったけど今いる場所が合ってもいない / 同
解説不要の人生シャウト。都会で生きる孤独を詠んだ歌はどうしても共感から刺さりがちなのだが、この連作は出てくるモチーフの選択(チェイサー、新宿のトイレ、セカスト、レイトショーetc...)がテーマに対して徹底していると感じた。詠む側としてはどうしてもそういう「くどさ」を避けたくなってしまう(と私は思う)が、くどい・えぐいからこそ美味い料理というのも当然存在するわけで……(めっちゃ褒めてます)
句またがりや字余りが多用され、短歌としては不安定な印象。確認したところ、8首すべてがどこかしら非定型。ともすれば稚拙にも感じられるが、お行儀良く定型に収めて歌うテーマでもないだろう。
塩味のネクタル溢る手にわづかあまるほどなる二つの果実 / 白糸雅樹
湖(うみ)のやう君のすべてが欲しくつて夏に降る雪、胸に咲く花 / 同
え、えっちだ……!情事を格調高く叙情的に歌い上げた連作。読んだことないので想像でものを言うことを許されたいのだが、官能小説の世界観ってこういう感じなんですかね……。
明言を避けるため、性行為にまつわる器官名を花や果実に喩えるのはよくある比喩だろう。が、その取り扱いが非常に巧みかつ上品で、嫌味なく匂いや湿度が立ち上ってくる感じがする。さきほどの評とは正反対に、8首通してほぼ完璧な定型に収まっている。だからこそ抑制の効いた美しさが醸し出されるのかもしれない。
田の端に彼岸花ゆれいつの日か絶えるしかない家なんだろう / 茂泉朋子
連作全体を通して、故郷に対するドライな、しかし優しさも孕んだ眼差しが滲む。ここで言う「いつの日か」は遠い未来ではなく、おそらくごく近未来を指している。主体にはこの「家」の終末めいたものが明確に見えていて、けれどどうしようもなく、同時にどうするつもりもないのだろう。一歩引いた観測者のような目線だ。
彼岸花にはどこか不吉なイメージ、死に近い香りがつきまとう。「田の端に彼岸花ゆれ」ているのはありふれた農村の情景だが、歌のテーマと相まって空虚な侘しさを演出する。
うみねこのこゑ満ちてくる浜辺にて想ふひと皆みじかい名前 / 森山緋紗
「浜辺にて想ふ / ひと皆みじかい名前」と切るか、「浜辺にて想ふひと / 皆みじかい名前」と切るかで読みが微妙に変わるが、私は前者で取った。人類の名前を「皆みじかい」と捉えたことはなかった(し、そうとも限らないだろう)が、感覚としてわかる気がする。
エコーし、増幅してゆくようなうみねこの声の合間に呼んでしまえば、確かに人の名前はことごとく短い。それは人の一生の短さの象徴のようでもあり、移ろう海の無常さ、果てしなさとも呼応する。詠んでいる景自体は写真一枚に収まるほどなのに、時空間を超えたマクロな視点を感じた。
評、難しいなー
ほんとむずかしい。
なんで今回自分なりに評を頑張ってみたかって、12月号の特集が『結局、「歌評」ってどうやるの?』だったからだ。タイムリーすぎ。
かばん東京歌会に顔を出すようになって、自分の読みの拙さに直面してウワーとなることが増えた。なんせモノを知らなさすぎるし、短歌的な文脈もわかっちゃいない。だから今回の特集は非常に勉強になったし、同時に安心もした。あっ、みんな評難しいと思ってんだ、よかった~って。
いちばん勇気づけられたのは、
評って、作者の気持ちを伺うものではなくて、あくまで自分のことを語るためのものなので。
作者の意図が作者の意図のまま伝わらなきゃいけないんだったら、あんまりこの詩型で詠う意味がない。
という部分。
あー、評って自分がマイク握って歌うひとつの作品くらいに思っていいんだな、と思うと肩の荷が下りた感じ。正解を当てにいくものでは全くないし、何をどう感じたかを第三者が各々の言葉で言語化することで作品が立体的になる、豊かになる、みたいな側面もあるんだろうなーと。
一介の酒好きとしては、ソムリエが酒について語るさまだと思うと結構しっくりきた。「うまい!」だけだと感想だけど、「どんな味がして、どういう美味さなのか。どういった特徴のある銘柄なのか」みたいなことを自分の言葉で伝えようとする、その行為こそ「評」なんだなあと。私……日ごろから……評、してたね……(酒のね)
改めてやってみたら拙いながらも楽しくできたので、今後も時間見つけて言語化がんばりたいなーと思いました(短歌のね)
追伸
12月号はkindle版が会員以外も読めるよ(Unlimited会員なら0円)