7000円という価値を考えてしまう。
7000円、今週はマッサージに使うことにした。昨日くらいから寝違えたのか左の肩甲骨のキワが痛い。風邪かな。わからん。帰ったら葛根湯を飲もう。単純にマッサージに行きたかったのもある。たのしみだ。
ごはんやビールも7000円。チョコレートも7000円。「よかったな」と思えるものには十分払える値段。それではなぜ、カウンセリングは「7000円かあ…」と思ってしまうのか。いやチョコ7000円やっぱ高いわ。買うけど。
ひとつ、良くなったという実感がない点。これについては回数を重ねてあのとき良くなったなあと思うこともあるだろうから、一概には言えないような気がしている。良くなったというか、自分が自分のことを話すときはどうしても泣いてしまうんだなあということはよくわかった。その根っこをひっぱりだすようなトレーニングをしていると思えば、良くなったといえる。ただ、これ、7000円も払わなきゃいけない?自分でどうにかできない?時間とってポッドキャストとかでできない?──とどうしても、これが最適解ではないのでは?と思ってしまう。これ、完璧主義のなんかなのかしら?いやでも金払うなら「おれの考えるさいてきかい!」であったほうがよくないか?
ふたつ、解釈のズレ。夢の話をするときの解釈が全然ピンとこない。フローリングの旅館の話をしたときに、私は長野の宿を思い浮かべていたけど、この部屋ですねって言われて(いやちげーけど…)って思った。本当はこういうことも言った方がよかったのかしら。そういえば夢の話をしたときに信頼してない現れだと思いますって言われてカチンときた。カチンとくるんだと思った。なんでだろうね。多少なりとも信頼していないと、7000円払って泣きながら話してないだろって私は思っていたからだろうか。なんだよこれまでの話はよってなったのかもしれないし、じゃあどうすりゃいいんだよとなったのかもしれない。何したら信頼してるって判断されるんだろう?不安なんですね、ならよかったのかな。
ただ実際思い返してみると、「なんでも話していい」とは思っていないし、インナーチャイルドをカウンセリングに置いていこうとも思っていない。無意識で何かのセーブをかけているのだと思う。無意識だからわかんねーや。多分7000円払わなくてもこれなら「自分でできる」と思ってしまったからなんだろうな。誰かがいないと、お金を払わないとできないこと、という判定にならなかったんだろうな。
少なくともこの場が、こうして自分を掘り下げるのに適していることで、もうすこしここでできることがあるんとちゃうかなという気持ちになる。
まあまた、再開したくなったら再開すればいいじゃないかと、そう思えることも実はカウンセリングにかかってよかった事なのかもしれないな。