早起きできたら映画を見にいこうだなんて思っていた昨日のわたしを裏切り、目が覚めて最初に飛び込んできた数字は「13:21」だった。バイトの時間から逆算して、どれだけ息を切らして走っても間に合わない時間だと悟り、再び枕に頭を投げる。
枕元で紙が擦れるような音がしたので見てみると、そこには昨日のモネ展でもらった作品リストがあった。端の方がちょっとだけ三角に折れたのを伸ばしながら、昨日紙に書き込んだメモを眺める。気に入った絵の好きなところや印象に残った箇所がきったない字で走り書きされていて、後で丸つけた絵をネットで調べてみようかなと思っていたら、ある言葉が目に留まった。『ラ・マンヌポルト(エトルタ)』という作品名の横に書かれた、「モネっぽくない」との言葉ーーこれは確かに私が書いた走り書きだが、決して私の意見ではなく、美術館で拾った他人の言葉だった。
美術館で他の人が喋ってるのを聴くのがすきだ。感動のあまり無意識のうちに漏れ出たような独り言とか、たまに辛辣さも含むJKたちの率直な感想とか、美術に詳しそうなおば様方の解説とか、色んなものに耳を傾けてみると見えなかったものが見えてくるような気がする。「なんで葉っぱが紫色なの?」「デジタルで描いたみたい」「この睡蓮燃えてる」「モネって1日何枚描いたんかな」「これいいな」「小学校のときのグリーンカーテンっぽい」色んな声を聞きながら、心の中で「そうだね」とか「それ実はね、」とか勝手に応対をした。もちろん静かに絵を鑑賞するのが一番好きだが、こういうのも悪くない。
そんな中、ある絵画が目に留まって、ペグシルを動かす手を止めた。脇に『ラ・マンヌポルト』と書かれた作品がふたつ並んでいる。連作なのだろう、まったく同じ構図のものだったが、それらは素人目にもわかるくらいタッチが大きく異なっていた。
1枚目は明暗で、2枚目は色彩の濁りで光が表現されていた。光のさし方も違う。よく見ると1枚目の方は宣伝ポスターに使用されていた絵で、目玉作品だったのだろうか、多くの人間の注目を浴びていた。わたしも同じで、自然にそちらへと目がいく。波と門内に反射する光が素直に綺麗だと思った。人物画以外のモネの絵で、ここまで心を奪われたのは初めてだった。
「1枚目、あんまりモネらしくない絵だね」作品を囲っていた中のひとりが、隣の人にそう言ったことで目が覚めた。モネらしくない、言われてみればそうで、濁ったような荒々しい筆致は印象派そのものであるのに、それが質感を表すような描き方になっているのが現代の厚塗りっぽい。だからわたしたちの感性に刺さるのかもしれないという話で、この「モネらしくない」は恐らく批判でもなんでもないことを、その場にいた人々が共有していたように思う。「そうかも、でも私は1枚目が好きかな」と返した人に、わたしは心の中で相槌を打った。
わたしはモネのどこがすきなのか分からない。大きくて美しくて厳かな人物画にしか興味がなかったはずで、昔はモネの絵が大して好きではなかったはずだ。ぼやけていて混濁した色合いにあまり惹かれなかったことをはっきりと覚えている。高校1年生のとき、親友が放った「モネの絵が好きなの」という発言に「わたしもだよ」と無責任に返してしまってから、なんとなくモネが好きなふりをして、モネの絵を漁る日々を続けて以降、今でも根拠なくモネの絵が好きだと思っている。確かに『日傘をさす女』を見たときはかなり好きだなと思ったけど、それだけ。人物画以外のモネの絵に対して、そこまで強い感情は抱かない。好きな『睡蓮』もあれば嫌いな『睡蓮』もあるから一概に言えたものではない。でもまあ、それでもいいのかな、と思ったりもした。好きな物の確固たる理由を持つ必要なんて、ただの言い訳探しにしかならないような気もする。これからも、なんとなくモネの絵を好きでい続けようかなと思った一日だった。