どうして阪大にまで来ておいて都道府県も覚えていないのか、と聞かれることが多い。そして塾講師をやっていると、(地理を任されることなんてほとんどないが)そのことを後ろめたく感じてしまうことがある。都道府県も覚えられない自分が塾講師なんて、と思う。
もともと幼少期から、ばらばらに散らかったものや立体的なものを頭で扱うのが苦手だった。向きが分からなくて地図を読むこともできなかったし、「来た道を戻るだけ」と言われても「帰るときは見る景色が違うんだからもはや来た道と同じではないのでは」と思ってしまう。コンビニを出たらもう右か左かわからなくなる。電車の扉が開かない側で待っていたら乗れなかったことが何度もある。47個もばらばらに散らかった都道府県は、覚えていて当たり前の物のように扱うには、いささか厳しすぎる代物だと思うのだ。
だが、流石に阪大まで来ている以上、日本地図にノータッチで生きてきたというわけでは勿論ない。高校入試の時期には毎日(誇張表現ではなく、本当に毎日)日本地図の穴埋め問題を解いていたし、便所の扉にも、勉強机の真横にも日本地図を貼っていた。どこがどんな場所であるかもまったく知らないまま、「岐阜」やら「福井」やら二字熟語(ないし三字熟語)を覚えては無理矢理な語呂合わせで覚えた記憶がある。「愛媛」は姫っぽいからインテリの高知を踏み台にしているとか、「熊本」は熊なので強いから九州の真ん中だとか、「徳島」は徳を積んできたいいやつなので率先して香川の下にいるだとか。今でもこの覚え方をしているので、思い出すのに1分くらいかかってしまう。
一応弁解をしておきたいのが、それなりに勉強をしてきてはいるので、制限時間がなければ8割ぐらい白地図を埋めることならできるということだ。たまに「7molは都道府県を覚えていない」という噂を聞きつけた人が白地図を押し付けたりしてくるのだが、全部とは言わずともそこそこ書けるので、微妙な空気になってしまうことが多い。わたしは何も悪くないのに。
しかし、まっさらな紙に自分で日本地図を書いたり、会話の中で「この県は𓏸𓏸県の右上あたりだよね」みたいな話をしたりすることが、まったくもってできないのだ。おそらくわたしが日本地図を描けば、関東と中部が窮屈な思いをして近畿地方がバカデカくなるだろうし、脳死で喋っていたら愛知は四国地方に存在してしまう。そもそも、「愛媛」と「高知」をハイブリッドさせたみたいな名前のくせに、あんなよくわからないところにある方が悪いのではないか。それに「福島」と「福井」と「福岡」もダメだ。流石に福岡が九州にあるのは中学ぐらいに覚えたが、あとの2つは今でも混ざる。加えて広島県には「福山」なんて地方があるからいよいよダメだ。幼少期の私の脳内には、広島と岡山の間に福山県が存在していた。
わたしにとって、都道府県というのはあまりにも生活に根ざしていない。録画以外のテレビを見ていればもう少し知れていたのかもと思うが、広島に住んでいても隣の県の話題が入ってくることなんてない。祖母の家が兵庫になければわたしは岡山の存在もしばらく知らなかっただろう。島根と鳥取の違いなんて、今でも「AQUAS(水族館)があるかないか」だ。義務教育で習った音楽をもう覚えていない人がいるように、元素周期表を覚えられない人がいるように、中学の日本史をまるきり忘れている人がいるように、わたしは都道府県を覚えるのが苦手なだけなのだが、世間で指をさされることが多くて参ってしまう。そのせいでひねくれまくった結果、一切覚えなくなってしまったのだが。
たとえば。都道府県が、五十音表のように理路整然と並んでいたとするならば、わたしは覚えるのにほとんど苦を感じなかっただろう。あんなめちゃくちゃな区分けをするから覚えられないのだということは、一定の賛同を得られても良い意見なんじゃないかと思う。どうだろうか。
わたしは、都道府県を覚えられないあなたの味方でありたいと思っている。わたしがいつか都道府県を完璧に覚えられるようになったとしても、あなたの味方でいるから、どうか梯子を外さないでほしい。