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7molの日記
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・先生の話

「今日、ゼミがあると思ってたんだよねえ」アルコールで顔を赤くした先生が、隣でぼやくように呟いた。まだ授業も始まっていないのに行われた早とちりなゼミの懇親会で、わたしはくじ引きによる席替えの結果、先生の真隣という特等席を陣取っていた。向かいにはわたしより日本語が達者な台湾生まれの先輩と、わたしより箸使いが上手なロシア生まれの先輩。予想以上に留学生が多く、同期を除けば半分くらいのゼミ生が海外から来た人だった。冒頭の言葉を吐いた先生はというと、今日からゼミがあると思っていたらしく、健気にもわたしたちのことを教室で待っていたらしい。昨年の「マーケティングⅠ」を受講していたときから何となく感じてはいたが、かなりお茶目なところがある。

先生と喋って驚いたことは、私のことを覚えていた、ということだ。何の流れだったか髪型の話になった際、「二つ結びしてるの珍しいね」と言われた。咄嗟に何を言われたのか分からず「ああ」とか「はい」とか返したんだけれど、今までに先生とまともに喋ったのはゼミ面接のときだけだ。去年授業を受けていたとはいえ、授業は先生が一方的に喋る形式、かつ、大人数での講義だった。情けないことに授業の半分以上を寝坊ですっ飛ばして欠席した私のことを、認知するタイミングなんてなかっただろう。面接は授業がほとんど終わったあとだったから、そこでわたしの顔を覚えたというわけでもなさそうだった。わたしは明らかに授業で目立つタイプではない。そんな生徒のことまで顔と名前(それから髪型まで)を一致させて覚えているというのは、異様なことに思われた。「すごいですね」と、思わず漏れた言葉に先生は不思議そうにしていた。自覚はないらしい。人望で好かれている人だとは聞いていたけど、あの数の生徒を把握しているなんて並大抵ではない。改めて凄い先生のもとに付けたのだと思うこととなった。

・先輩の話

色々な人とお話できて楽しかったのだけれど、特に印象深かったのはロシア人の先輩だった。一度社会に出てから大学院に入ったらしく、7つ上。わたしなんておばさんだからと言っていたけれど、正直わたしより若くて綺麗だった。

文学が好きだという先輩は、ドストエフスキーが憧れの人物なのだと話してくれた。最近作問のために『罪と罰』を読み返したおかげでいくつか会話を成立させた後、先輩は初対面のときよりいくつか弾んだ声で言った。「ミハイル・ブルガーゴフが好きなの」圧が強すぎる目線から逃れようとしながら、なんだか聞いたことのある名前を必死に思い出そうとして、レモンサワーを持ち上げたところで思い出す。「『巨匠とマルガリータ』ですか」クイズで耳にしたことがある程度の知識にも関わらずやんわりと口が滑り、"原稿は決して燃えない"の前振りまで再生したところで嫌気が差した。しかしそんなことを知るはずもなく、先輩はわたしの返答をいたく気に入り、色素の薄い綺麗なおめめをきらきらと輝かせてしまう。「詳しいのね!」まったく詳しくないなんて今更言えるはずもなく、曖昧に微笑んでいたところで相手の鞄に見慣れたストラップが付いていることに気が付いた。「『銀魂』の神威、好きなんですか?」その一言で、彼女はロシア文学の話をしていたときの5億倍ほど輝かしい笑顔を見せた。表情がカラコロと変わる愉快な人だった。そこから延々と銀魂の話になり、ロシアの食文化の話を聞き、意気投合してInstagramを交換した。また話そうね、と目を細めた先輩がとても美しくて、思わず心臓がちょっとだけ飛び跳ねた。

・同期の話

帰り際、二次会から逃れるべくそそくさとローソンへと逃げ込んだ。用もなく棚に並んだお菓子をふらふらと眺めていると、誰かにぶつかってしまう。すみません、と顔を上げたがわたしより顔ふたつ分くらい背が高い相手の顔を一瞬で認知することができず、気まずくなって出口へと向かった。「あれ、帰るの?」相手の口から出てきた声があまりに聞き慣れた声で、びっくりして顔を上げた。ゼミ懇親会の参加者で唯一、わたしが元から知っていた友人……友人? 知り合い、ぐらいがちょうど良いかもしれない。学籍番号がわたしのひとつ後ろで、大体の授業でグループワークを一緒に成し遂げた知り合いだった。1年生の春出会ったときは金髪で方言丸出しのヤンキーだったから本当に怖かったけど、最近はなんだか落ち着いて見える。もう3年生か、としみじみ感じてしまう。「二次会あるけど」行かないの、と言外に滲まされるが、そもそも二次会の参加者はほとんど4年生以上だったはずだ。そっちは行くのかと聞けば「先輩に来いって言われたから」と頷かれ、やっぱりこの人のコミュニケーション能力は凄まじいと思った。初対面の相手から二次会来いよと言わせることなんて、普通はできない。それから数分言葉を交わして、去り際に「また来週」と言われた。また来週。来週からゼミが始まってしまうらしいことがなんだか現実味を帯びてくる。少しのワクワクと幾らかの面倒が折り重なってわたしの肩にのしかかる。楽しいと、いいな。