◆直近の己の元気のなさ
ここ2日ぐらい、特筆して大変な目にあったわけでもなく、かといってショッキングな出来事にあったわけでもないのに、ものすごく落ち込んでいた。
それは気温の変化もあるだろうし、そうじゃないかもしれない。肩こりや腰の痛みがあるとか、そういう慢性的なものが悪化するとかでもありえるし。あてはまらなくても「まあ気温の変化のせいにしてればええか」もできるけど、どうしても理由のないモヤモヤと対峙して苦しんだ。
それを察して、友達がちょっと話す?と他愛もない雑談をしてくれた。朝起きた時から本当に辛くて、日中に少し外に出る事で回復したけど、夜にまた気が落ち込んで雑談らしい雑談が出来ていたかも定かじゃない。気にする事でもないとわかりつつも、それがなんだか哀しかった。
今朝、歩きながら要因は何かを考えた。私は「他愛のない会話/コミュニケーション不足」と「それに伴う人間関係の変化への恐れ」があったのではないかと、一つの結論に到達した。それが直接の原因じゃないかもしれないけれど、今の自分に思い当たるのはそれだった。
今のSNSやインターネットの使い方は、本当に好きじゃない。攻撃的な言葉、第三者の見知らぬ人さえも揶揄する言葉が慢性的に、かつ、母数も増えたように感じる。それは私が観測しているタイムライン上でも、はたまた友人間でも。でも、それは何気ないその人の独り言でしかないから、1つ1つあれが良い、これが悪いとも言えない。でも、そういった言葉に多分、自分でも気づかぬうちに小さな傷がついてたんだと思う。見ようによっては繊細だね、と思われるかもしれないけれど。
でも、自分がSNSから離れられないのは、それを媒介にコミュニケーションをとる友人が圧倒的に多いからだと思う。その人に声をかけたいけど、話題が本当にわからない。その人が何を好きで、というのは日々見ているはずなのに。
好きなものを好きだと発信する人も、私が見ている視界の限りは少なくなっているような気がする。好きだと発信したところで、180度違うこじつけの意見を押し付けられて、好きなものを発信できなくなっていく人をおすすめタブでも見かける事がある。そういうことが悲しいんだと感じているんだと思う。
本当は、曖昧な好き、興味、関心の気持ちだけで相手とざっくばらんに適当に話したい。だけど、会話を開始すると、なんとなく解像度の高い内容を求められている気がして、少しだけ話しかけづらい気持ちになる。簡単な「ただいま」「おかえり」という短い言葉だってコミュニケーションだっていい。
少し距離が離れただけで、まるで他人行儀になられてしまうのが、寂しいんだと思う。こういう事が多分、今後より増えていくんだろうなと思ったら、より寂しくなった。
理由づける必要はないと思うけれど、言葉あるいは文章にしないと、頭の中で思っているだけじゃ自分自身ですらこういうことに戸惑い、わからなくなる気がしたので、しずかなインターネットに書き留めておこうと思った。そして、小さな挨拶からだけでも、積み重ねで言葉にしていこうとも思った。
伝えられる機会は、たとえ残りの人生がまだたくさんあったとしても、多分そう多くはないだろうから。