この季節になると、毎年思い出す人がいる。
実家の近所に住んでいた一人暮らしの老婆のことだ。
名前は『ハルばっぱ』。正しくは『ハル』という名前のお婆さん。
ハルばっぱは、細く長い古い日本家屋に住んでいた。いつも僕は裏から遊びに行っていたから、記憶にあるのは広い裏庭と、その先の薄暗い納屋。古い農具や野菜が吊るされた納屋を通って、ようやく玄関にたどり着く。
玄関を開けるとすぐに居間があった。僕は二段上がって、こたつに潜り込む。居間には干支の貯金箱がいくつも乗ったブラウン管テレビと、黒いジーコジーコ電話が置いてあった。
そして丸顔のシャム猫が、一匹。
小学校入学前。まだ昭和が色濃く残る、平成の最初の方の話だ。
おそらくカレンダー上の休日。一次産業従事者の両親はこの季節は忙しい。記憶にあるのは、春の終わりの日差しが眩しい庭や、生い茂る土手の草花を眺めて歩いたこと。
そんないつもの休日。散歩をしていたら、ハルばっぱが庭の手入れをしていた。
隣にしゃがんで草むしりをしていると、目に入ったのは小さなピンクと青の花。
「これなんていうの?」
「勿忘草だよ。気に入ったなら一株持っていく?」
そう言って持たされた青い小さな花を、ハルばっぱの庭と同じような場所に母と植えた。
小学校に上がれば、あまり遊びに行くことはなくなり、登下校で顔を合わせればあいさつする程度。たまに穫れ過ぎた魚をボールに入れて、お裾分けのお使いに行くこともあったが、それだって、高学年になる頃にはやらなくなった。
一緒に暮らす認知症の実の祖母より懐いていたはずなのに、不義理なものだ。
とはいえ、子供の成長なんてそんなものだろう。次々に新しい扉を開けて、飛び出していく。
時間の流れは常に一方通行で、今あるものほど見えにくいものはない。
そして、震災を経た僕の故郷に、あの頃の面影はほとんどなくなった。
案外繊細な勿忘草を空き地で見かけることはなく、代わりに目につくのは良く似た小さな水色の花。
胡瓜草と言うらしい。最近名前を知ったのだが、それまでは勿忘草の一種なのだと思っていた。
花言葉は『真実の愛』『愛しい人へ』。『真実の愛』は勿忘草に似ていることにちなんで与えられたとかなんとか。
その花は、子供の頃に出会った勿忘草ではない。
それでも僕は、野に咲く胡瓜草の面影に、毎年一つ思い出す。
春の名前を持った、忘れられない優しさを。