「不完全」という魅力

あい
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毎日、一銭もお金を払っていないのに、TwitterのおすすめTLに頻繁に素晴らしいイラストが流れてくる。恵まれた時代だと思う。ところが昨今の生成AIの台頭によって、”素晴らしいイラスト”をAIが描いたか人間が描いたかを見分ける必要が出てきた。私は人間が描いたイラストが好きなので、(人間が描いたならば)描いた方を積極的にフォローして応援したいからだ。

AIかどうかイラストを見極める時、絵の中に ほんの少しだけ滲み出る特有の癖(敢えて悪い言い方をすると 型に嵌ったAIにはない”不完全さ”)を見出すと、その部分を愛おしく感じ、人間だと確信する。

しかし、"完全性"ではなく"不完全性"に魅力を見出して愛するというのは不思議なものだなと今一度思う。

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人間らしさ、人間の本質的な魅力や価値は 完全性ではなくむしろ不完全性の中に宿るのかもしれない。

作品単位ではなく"人生"というマクロな観点においても同様に、尊ばれるのは完全さではなく、過ちを犯したり悩んだりしながら成長していく姿そのものに人間らしさや愛すべき点があるのだ と先人は語る。 

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ここで、哲学的な観点から、この不完全性の見做され方を再考してみたい。

古代ギリシャのプラトンを例に挙げてみよう。彼は二元論的世界観を提唱し、真の実在であり完全な理想郷である"イデア界(完全で普遍的な概念)"を追求しつつ、現実世界を"本当の実在からはほど遠い不完全な模倣に過ぎず、イデアの影である(現象界)"と延べ両者を区別した。人間の不完全性を前提とした上で、それでもイデアの存在を推察し その完全性を希求する姿勢を持つ。これは今日まで続く西洋哲学に多大な影響を与えた。

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では西洋の宗教観ではどうか? キリスト教では、人間を"原罪を背負った不完全な存在"と定義した。アダムとイブが禁断の果実を食べたことで楽園を追放され、以後全ての人間は生まれながらにして罪を負うことになった。つまり人間は本質的に罪深く、神の完全性からは程遠い存在と定義されている。しかし同時にキリスト教における神は、そのような不完全な人間を愛し、救済しようとする存在でもある。たとえ人間が罪を犯し、神から遠ざかったとしても、神は決して人間を見捨てることはない。これはイエス・キリストの存在に顕著に表れる。キリストは神の子でありながら、人間の姿をとって地上に降り立ち、人間の罪を贖うために十字架上で死んだ。これは神が人間の不完全性を引き受け、それを愛によって救済しようとする行為だと解釈される。つまりキリスト教における人間の不完全性は単に否定的なものではなく、神の愛と恩寵を受ける根拠でもある。人間が完全であれば、神の助けを必要としない。しかし不完全であるからこそ、神の愛が意味を持ち、神との関係性が生まれると説く。神学者カール・バルトの立場を取ると"人間の存在そのものが神への応答=自らの不完全性を自覚し、神の呼びかけに応えることで、真の自己を見出すことができる"となる。不完全性は人間の本質的な特徴であり、だからこそ神の恩寵が意味を持つ。

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近代にも目を向けよう。第二次世界大戦後にフランスで"実存主義"を唱えたサルトルは、人間の本質は"存在"に先立って決まっているのではなく、"自ら選択し行動すること"で初めて形作られると主張した。人間には生まれながらに決められた本質のようなものはなく、むしろ自らの選択と行動によって自分自身を定義していくという立場だ。近代以前の伝統的な考え方では、人間には神や自然によって予め与えられた本質や目的があり、人生はそれを実現していくプロセスだと捉えられてきたことに対し、サルトルはそのような本質は存在せず、人間は徹底的に自由であると主張した。この自由は、自分の人生に完全な責任(=自らの行動を通して、絶えず自分自身を創り直していく責任)を負うことを意味すると同時に、人間が"未規定"の存在であることを意味する。サルトルの「人間は自由である。いや、人間は自由であるよう呪われているのだ」という表現に示されるように、完成された理想的な人間像など存在せず、常に未完成のままであることが人間の宿命だと定義し、それを引き受けて全面的に生きることこそが本来性(authenticity)であると述べる。未完成であることは単なる人間の欠点ではなく、むしろ人間の条件そのものだと捉えられている。

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西洋哲学/神学だけでなく、古くからの日本の宗教観においても不完全性は肯定される。禅仏教では"悟り(=自我の執着からの離脱、全ての存在の空性の体得)"を目指す一方で、日常の些細な行為の中にも、悟りにつながる道を見出そうとする。例えば茶道や俳句、枯山水に影響が見られる"侘び寂び"の美学は、不完全なもの、非対称なもの、質素なものに美を見出す態度だ。ここでは完璧さよりも、むしろ不完全性の中に、真理へ通じる何かを感じ取ろうとする。また、神道では自然をありのままに受け入れ、清濁併せ呑む態度が重視される。例えば、日本の多くの神社には、自然石や奇岩が神体として祀られている。これらは必ずしも美しい形をしているわけではないが、自然の力が宿る存在として崇拝の対象になる。また、神道の神々は、完全無欠の存在ではなく、時には人間的な感情や欲望を持つとされる。神道の祭りでは、神々を人間世界に迎え、共に飲み食いし、騒ぐ。その聖と俗、秩序と無秩序が混然となる姿は、不完全な人間存在の肯定とも言える。日本の宗教観には、完全性よりも不完全性を受け入れ、時にそこに積極的な意味を見出そうとする姿勢があるように思う。完成を目指すより未完成の状態を生きることに価値を置く世界観だ。

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そして2024年現在、冒頭で述べたように 一部で人間の能力を超えるパフォーマンスを見せる生成AI技術の発展によって、"人間の独自性や優位性とは何なのか"が改めて問い直されている中、むしろ人間の持つ"不完全性"こそが尊ばれるものではないか、と捉える向きもある。AI技術は膨大なデータに基づいて最適解を導き出すことを可能にするが、その処理は基本的に既存のパターンの組み合わせ(=データセット)に依存している。一方で人間は、必ずしも合理的ではない思考や感情に導かれ、失敗や挫折を経験する。しかしその経験の中で、既存の枠組みを超えた発想が生まれることがある。そして何より、人間の持つ他者への共感や思いやりといった感情は、単なる合理的判断を超えた"人間らしさ"の表れだと言えるだろう。

こうして歴史上の多様な思想の変遷を踏まえると、無論、理想や完成を追求すること自体は否定されないものの、不完全であることが人間の本質的な特徴、ないし価値として認める思想が古くから一貫して語られていることを、改めて認識せざるを得ない。

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私は就職活動で様々な企業の人事の方と何回も面接をして自身の人間性を深く問われた。面接でどの企業でも共通して問われたことは、意外にも、"これまでどんな成功を成し遂げたか"ではなく、”これまでどんな大きな失敗をしたか。それをどう乗り越えたか”だった。やはり 人間の中に潜む弱さ、不完全さ、失敗。そこにこそ人間存在の真の奥深さ、真価、味わいが潜むのだろうと思う。

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現代、ソーシャルメディアの普及で 私達は世界中から発信される人間の情報の濁流に飲み込まれ、ダンバー数など優に越えた膨大な人々の生活を見せつけられ、比較してしまう。自分の上位互換に囲まれ、人より劣った自分を再確認させられる。多くの人が自らの弱さ、不完全さに悲しくなってしまう時代かもしれない。まさに過去の私がそうだった。しかし、その不完全さは決して自己の価値を落とすものではないのだと今の私は強く言いたい。

確かに人はみな脆弱で不完全だ。だが、そして それ故に、人間らしく、存在そのものが尊く、たまらなく魅力的なのだ。

@a1
こんにちは。Misskey.ioに よくいます。