「不完全」という魅力

あい
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公開:2024/3/22

 毎日、一銭もお金を払っていないのに、TwitterのおすすめTLに頻繁に素晴らしいイラストが流れてくる。恵まれた時代だと思う。ところが昨今の生成AIの台頭によって、”素晴らしいイラスト”をAIが描いたか人間が描いたかを見分ける必要が出てきた。私は人間が描いたイラストが好きなので、(人間が描いたならば)描いた方を積極的にフォローして応援したいからだ。

 AIかどうかイラストを見極める時、絵の中に ほんの少しだけ滲み出る特有の癖(敢えて悪い言い方をすると 型に嵌ったAIにはない”不完全さ”)を見出すと、その部分を愛おしく感じ、人間だと確信する。

 しかし、"完全性"ではなく"不完全性"に魅力を見出して愛するというのは不思議なものだなと今一度思う。


 ひょっとすると、僕らが「人間らしさ」と呼ぶものや、人が持つ本質的な魅力、価値みたいなものは、完璧さの中にあるんじゃなくて、むしろ、この「不完全さ」の中にこそ潜んでいるのかもしれない。

 一枚の絵の話だけじゃない。

僕ら自身の「人生」という、もっと大きなスケールで見ても、そうじゃないだろうか。寸分の狂いもない完璧な人生なんてものより、失敗したり、悩んだり、それでも前に進もうともがく姿そのものに、人は共感し、愛おしさを感じるのだと。


 ここで、歴史的な観点から、この「不完全性」の見做され方を再考してみたいと思う。


 例えば、古代ギリシャのプラトンは、僕らが生きるこの現実の世界とは別に、「イデア界」という完璧で永遠な理想の世界があると考えた。僕らの日常は、そのイデア界の不完全なコピー、いわば「影」のようなものだ、と。つまり、人間はこの世に生まれた瞬間から、どこか不完全な存在だというわけだ。

 ここまでは、ある意味で「不完全さ」のネガティブな側面を強調しているようにも聞こえる。しかし、プラトン哲学の面白さはその先にある。彼は、僕らの魂の奥底にはその完璧なイデアの記憶が微かに残っていて、だからこそ僕らは美しいものや善いものに触れると、イデアを思い出して強く憧れるのだ、と説いた。重要なのは、この「イデアへの憧憬」が、まさに我々が自らの「不完全性」をどこかで自覚しているからこそ生まれるダイナミズムだという点だ。

 もし我々が初めから完全なら、何かを渇望したり、より良いものを目指したりする必要はないだろう。プラトンが描くのは、自らの不完全性を知りながらも、それでもなお完全なるものへと手を伸ばそうと努力する人間の姿だ。

 そして、僕らが「不完全さ」に心を動かされるのは、ひょっとすると、このプラトン的な構図と無関係ではないかもしれない。つまり、完璧な理想には到達できないと知りつつも、そこへ向かおうとする過程で現れる、その人ならではの揺らぎ、試行錯誤の跡、意図せぬ滲みといった「不完全さ」の中にこそ、その人だけの人間的な奮闘の軌跡や、生きた証のようなものを見出すからではないだろうか。

 それは、完成された美しさとは異なる、むしろ「不完全であるからこその魅力」と言えるかもしれない。


 西洋の宗教、特にキリスト教の世界観も興味深い。

 キリスト教では、人間は「原罪」を背負った存在だとされる。アダムとイブが楽園で禁断の果実を食べて以来、僕らは生まれながらにして罪を負っていて、神様の絶対的な完全さとは程遠い、と。これは一見すると、人間の不完全性を厳しく断罪しているように見えるかもしれない。

 しかし、キリスト教の核心にあるのは、むしろそのような不完全な人間に対する、神様の限りない愛と、そこから生まれる救済の物語だ。

 イエス・キリストが人間の姿でこの世に現れて、僕らの罪や弱さを代わりに背負って十字架にかかったというのは、まさに神様自身が人間の「不完全性」をただ否定するのではなく、それを深く理解し、受け入れ、そして愛によって包み込もうとした究極の行為と解釈できる。もし人間が最初から完璧で、何の欠点も持たない存在だったら、神様の介入や愛、そして救いといった概念はそもそも必要なかっただろう。

 神学者のカール・バルトは、「人間は自分の不完全さをちゃんと認めて、神様の呼びかけに応えることで、本当の自分に出会えるんだ」と述べている。ここでの「不完全性」は、単なる欠点や罪の状態に留まらない。むしろ、それがあるからこそ、人間は神様の愛や恵みを受け取る「器」となり得るのだ。

 僕らが「不完全さ」に心惹かれるのは、そこに完璧ではないが故の「人間的な余白」や「助けを必要とするありのままの姿」を感じ取り、そこに共感や愛おしさを覚えるからかもしれない。それは、キリスト教が示す、不完全であるからこそ愛され、救われる資格があるという、逆説的でありながらも深い人間肯定のメッセージと、どこかで通底しているように思えるのだ。

 つまり、人間の「不完全性」は、それ自体が神の愛を引き出す磁場となり、そこにこそ人間存在の尊厳の一つの根拠が見出せる、ということではないだろうか。


 時代を下って、「現代」の感覚に近いところで人間のあり方をラディカルに問い直したのが、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルだろう。

 彼の「実存は本質に先立つ」という鮮烈なテーゼは、まさに人間が「不完全」であること、もっと言えば「未完成」であることを根源的な自由として捉え直す、革命的な視点だった。

 サルトルに言わせれば、ペーパーナイフのような「物」は、その「本質(何のために、どのように作られるか)」が「実存(実際に存在すること)」に先立って決定されている。しかし、人間はそうではない。神によって予め「人間とはこういうものだ」という設計図を与えられたわけでもなければ、自然によって特定の目的を運命づけられているわけでもない。

 人間はまず、この世界に「存在する」。そして、その何者でもない空っぽの「実存」から出発して、自らの自由な選択と行動を通じて、自分自身を「何者か」へと作り上げていくのだ。

 これは、人間が生まれつき「未完成」であり、常に投企として自らを未来へと投げ出す存在であることを意味する。AIが予めプログラムされたアルゴリズムに従って最適解を導き出すのとは対照的に、人間にはそのような固定されたプログラムはない。だからこそ、人間は自由であり、同時にその自由に全面的な責任を負わなければならない。サルトルの有名な「人間は自由である。いや、人間は自由であるよう呪われているのだ」という言葉は、この逃れられない自由の重さと、それゆえの創造の可能性を鋭く突いている。

 僕らが、AIが生成した完璧に見えるかもしれないアウトプットよりも、人間の手によるイラストの、ある種の「不完全さ」や「未熟さ」に心を動かされるのは、まさにこのサルトル的な「未完成性の輝き」を感じ取るからではないだろうか。そのイラストに込められた試行錯誤の跡、意図通りにいかなかったかもしれない筆致の揺らぎ、完成を目指す途上にあるがゆえの生々しいエネルギー。それらは、「既に完成されたもの」ではなく、「今まさに生成しつつあるもの」「絶えず自己を乗り越えようとする自由な精神の軌跡」としての魅力を放っている。それは、ペーパーナイフのような「本質が固定された物」には決して持ち得ない、人間という「未完成な実存」だけが持つ特権的な輝きなのだ。

サルトルにとって、この「未完成」であることは、決してネガティブな欠陥ではない。むしろ、それは人間が絶えず新しい可能性へと自らを開き、自己を創造し続けるための「条件」そのものである。

 人間が時に迷い、過ちを犯し、矛盾を抱えながらも、それでもなお「より良き自己」であろうと選択し続ける姿。その「不完全さ」を抱えながらの絶えざる自己形成のプロセスにこそ、人間の尊厳と深みがある。

 サルトルの思想は、僕らに「不完全であること」を恐れるのではなく、むしろそれを引き受け、自由の証として誇り、そこから自分だけの人生を創造していく勇気を与えてくれる。だからこそ、僕らは人間の「不完全さ」の中に、その人だけの物語と、かけがえのない価値を見出すのかもしれない。


 さて、ここまで主に西洋の思想的潮流を中心に「不完全性」の位相を探ってきたが、東洋の叡智、とりわけ仏教の思想に目を向けると、この「不完全性」はまた異なる洞察をもって捉えられていることに気づかされる。

 仏教の根本には、「一切皆苦(いっさいかいく)」という現実認識がある。これは、この世のあらゆるものは移ろいゆき(諸行無常)、固定的な実体を持たず(諸法無我)、それ故に我々の思い通りにはならず、苦しみが本質的に伴う、という教えだ。

 この視点から見れば、人間存在そのものが、そして我々が執着するあらゆるものが、本質的に「不完全」であり「不満足」な性質を帯びていると言えるだろう。しかし、仏教はこの「不完全性」を単に嘆き悲しむべきものとして突き放すわけではない。むしろ、この現実を直視し、その不完全さや苦しみの根源(煩悩や執着)を理解することで、そこからの解放(涅槃寂静)を目指す道筋を示す。

 例えば、仏教で重視される「縁起」の教えは、全ての事象は相互依存の関係性の中にあり、独立自存するものは何一つないことを説く。これは、個々の存在がそれ自体では「不完全」であり、他との関わりの中で初めてそのありようが定まるという、根源的な不完全性と関係性の肯定とも解釈できる。


 日本の伝統的な考え方や美意識の中にも、「不完全さ」を温かく受け入れる知恵がある。

禅の思想が息づく茶道や俳句、枯山水の庭園でお馴染みの「侘び寂び」。ピカピカの新品よりも、少し古びていたり、欠けていたり、左右非対称だったりする、そういう「不完全さ」の中にこそ、深い趣や美しさを見出そうとする感性だ。

 完璧な調和や華やかさよりも、むしろ不完全で移ろいやすいものの中に、自然の移ろいや、存在の奥深さを感じ取る。 もっと古くからの神道の世界観も、そうかもしれない。神道では、自然そのものを神様として敬い、あるがままの姿を大切にする。山や川、変わった形の岩や古い木がご神体として祀られているけれど、それらは必ずしも人間から見て「美しい」形をしているわけではない。むしろ、その荒々しさや不均一さの中にこそ、人知を超えた大いなる力を感じてきた。

 神道の神様たちも、絶対的に完璧な存在というよりは、時には怒ったり、嫉妬したり、人間臭い感情や弱さを見せたりする。お祭りなんて、まさに聖なるものと俗なるもの、秩序と混沌が入り混じる、ある意味で「不完全」なエネルギーの爆発だ。完成されたものを崇めるというより、未完成なままの生を肯定し、自然の一部として調和して生きようとする。そんな大らかな世界観が、日本には昔からあったのではないだろうか。


 そして、時は流れて2024年。

 冒頭で触れたように、AI技術がどんどん進化して、人間の知性や創造性の領域にまで踏み込んできている。「人間だけの特別な能力って、一体何なんだろう?」と、改めて考えさせられる毎日だ。そんな中で、ふと思う。AIが持ち得ない、人間の「不完全さ」にこそ、僕らの本当の価値があるんじゃないか、と。AIは、膨大なデータから最も効率的で完璧に近い答えを出すのは得意だ。でも、それはあくまで過去のデータのパターン認識の延長線上にある。

 一方、人間は、必ずしも合理的じゃない感情に動かされたり、見当違いの失敗をしたり、回り道をしたりする。でも、そういう一見無駄に見える「不完全な」プロセスの中からこそ、誰も思いつかなかった新しいアイデアが生まれたり、他人の痛みに心から共感できたりするんじゃないだろうか。


 こうして、昔の賢人たちの言葉や、いろんな文化の知恵に触れてみると、もちろん理想を追い求めたり、完璧を目指したりすること自体は素晴らしいことだ。でもそれと同時に、「不完全であること」もまた、人間の大切な一部であり、時にはそこにこそ人間らしい魅力や価値があるんだ、という考え方が、時代や文化を超えて、繰り返し語られてきたことに気づかされる。

 私は就職活動で様々な企業の人事の方と何回も面接をして自身の人間性を深く問われた。面接でどの企業でも共通して問われたことは、意外にも、"これまでどんな成功を成し遂げたか"ではなく、”これまでどんな大きな失敗をしたか。それをどう乗り越えたか”だった。やはり 人間の中に潜む弱さ、不完全さ、失敗。そこにこそ人間存在の真の奥深さ、真価、味わいが潜むのだろうと思う。

 現代、ソーシャルメディアの普及で 私達は世界中から発信される人間の情報の濁流に飲み込まれ、ダンバー数など優に越えた膨大な人々の生活を見せつけられ、比較してしまう。自分の上位互換に囲まれ、人より劣った自分を再確認させられる。多くの人が自らの弱さ、不完全さに悲しくなってしまう時代かもしれない。まさに過去の私がそうだった。しかし、その不完全さは決して自己の価値を落とすものではないのだと今の私は強く言いたい。


 確かに人はみな脆弱で不完全だ。だが、そして それ故に、人間らしく、存在そのものが尊く、たまらなく魅力的なのだ。

@a1
こんにちは。