ある物事に思いを馳せるとき、その思考には深さが存在する。思考が深いとは、思考の対象となる物事だけに限らず、より広い視野で思いを巡らせ考え抜くこと、つまり熟考のことだ。思考が浅いとは、目の前にある情報だけから直観的に考えること、つまり浅慮のことだ。一般に、浅慮より熟考の方が望ましいとされているが、時間に余裕のない事態においては浅慮の持つ直観性が重要視されることもある。
さて、この思考の深さを使い分けられる人間は稀有である。実際には、物事を深く思考する人間と浅く思考する人間、というように人間単位で区切られることがほとんどである。ただし、深く思考することと、思考がとっ散らかることは似て非なる別物であることは意識しておく必要がある。結論に辿り着くまでの道筋を立てることが、深い思考とする必要条件となる。
思考に深さの違いがあることを認めたとき、では、人の意見の価値には思考の深さによる重み付けを行うべきだろうか。さまざまな物事にまで思いを馳せて述べられた意見と、とりあえず目の前の情報から直観的に考え述べられた意見は、同じ価値を持つだろうか。民主主義を奉じる我々は、基本的に全員の意見は平等な価値を持つ、という暗黙の了解を共有している。何かしらの組織においては、意見を述べた者の役職によって重み付けされることは一般に行われるが、それが過剰になると忖度や媚売りなどと揶揄され始める。つまり、意見の価値は基本的に平等であるという前提が暗黙的に存在する。
もし、全ての意見が平等に価値を持つのであれば、深く思考する人間ほど損をすることになる。思考とはコストであり、人それぞれ大小の差はあれど、脳内リソースを消費することになる。よって、意見の価値と思考の深さに相関関係がないのであれば、より少ないリソースで浅い思考をおこなう方が得ということになる。もし、この事実を認めてしまうと、全ての人間が脳死で適当に思ったことを口にして、理性や論理を無視して直観と感情に基づく意見を述べ続けた者の勝ち、という状態になってしまう。これが健全な状態だと思うことは難しい。つまり、全ての意見は平等ではない。
ここで、浅い思考による意見の価値がなくなる訳ではない、ということは注意が必要だ。複数人が集まって意見を出しあうこと、つまり議論とは、誰の意見を採用するかを決めることが目的ではなく、全員の意見から最適だと思われる解を見つけ出すことが目的である。とはいえ、その最適な解を見つけ出す工程において、全ての意見が等しく価値を提供することは稀だ。高度な専門知識、広い見識、論理的思考などによって紡がれる深い思考による意見の方が、より多くの価値を提供している、かもしれない。
深い思考に基づく意見ほど価値を持つのであれば、誰がその価値を見定めるのかが最大の課題となる。残念ながら、私の知る範囲において、この課題の解決策の心あたりはない。意見を出しあう場において、その場を取り仕切る人間の裁量に暗黙的に委ねられているのが現状だろう。そして、恐らくこの事実は暗黙の了解として共有されていることは少ない。つまり、基本的に全員の意見は平等な価値を持つ、という暗黙の了解が優先されるのである。
まぁ思考が深いからといって、必ずしも最適解を導けるわけでも、正解を導けるわけでもない。とはいえ、思考が深いとは、つまり思考の末に取った行動を他人に説明できるということである。行動の理由を説得力を持って説明できること、が本質的には重要なことであって、深く思考するのは、そのための手段に過ぎないのかもしれない。