監督 ヨルゴス・ランティモス
映画館で字幕版を鑑賞。142分。
あらすじ:天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。
感想を書くのにかなり時間がかかったのは様々な要因があるが、何よりも第一にこの映画の威力がすさまじかったから、というものだ。
観終わった後の手が震えていた。席を立ち上がり劇場を出て、観ることができてよかったとひしひしと感じた。なんとなく買っておいた方が良い気がして上映前にパンフレットを買ったのだけれども、その直感に従った自分に本当に感謝したい。そういう映画だった。人生のベストに入ってくる映画だ、とレイトショー後の大した星もない黒い空を見上げて思った。
今年になって映画を見よう、映画録をつけようと意識をし始めてそろそろ一ヶ月経つけれどもその点においてよかったことが明確にひとつある。
「たくさんの映画を見る」「映画録をつける」それらの当初の目的は小説を書くにあたってのインプット程度にしか捉えていなかった。然し、これは「哀れなるものたち」を見てことさら自覚した自分の成長のようなものなのだけれど、例えば、記録として書き記すから印象的に残ったシーンは覚えておこうだとか、自分は主人公の行動を見てどういう考えを抱くかだとか、映画を見ているさなかにずっと思考を巡らせるようになったのだ。(それはそれで映画に集中できていないのではと思われるだろうし実際考えすぎて台詞を聞き漏らすこともある。)思考に新たなストレージを追加するというか、映画は人生に良い影響を与えてくれるとまでは思わないけれども、映画は人に思考させてくれる、とは思う。それが良い。自分の気づかなかった部分や自分の考えたこともなかったようなこと、自分がいいと感じるものや不快だと感じるものを教えてくれる。大切なことだな、と心に覚えながら映画を観るようになった。そしてそれを記録することが、自分の心の拡張に広がる気がしている。そのことに気づけて嬉しい。
さて、この映画についてはエマ・ストーンが主演であることと簡単なあらすじだけを頭に入れて鑑賞した。自死した女性が胎児の脳を移植されて生き返る。あらすじの印象として、結構とんでもない映画だな……。だった。加えてR-18である。SNSの絶賛っぷりも相まって身構えた。
映画は最初、ベラが自殺をするシーンから始まる。どんよりとした灰色の雲が漂う雨色の空と、重厚なつくりの橋に立つ青いドレス姿のベラだ。彼女の身が、手すり越しに落ちてゆく。
そこから切り替わった画面はなんとモノクロである。これは衝撃だった。なんというか、ゴジラ−1.0もモノクロ版を放映していたらしいし、間違ってモノクロ版みたいなものを予約してしまったのかな……。と思ったくらいだ。それはそれで楽しめるか、でもなんかファッションとか景色とか多分可愛いんだろうし鮮やかだろうしそっちも楽しみたかったな……などと不安になりながら観ていた。この画面は結局意図的なモノクロだったのだけれども、フルカラーの映画にすっかり慣れていた世代の人間だからこそ効いた手法でもあった。モノクロの画面は屋敷から出られない間のベラの世界を表しているのだと、のちにわかる。
外科医のゴッドに頼み事があると彼の屋敷に連れられてやってきた若い医者のマックスはゴッドの家でベラに出会う。ベラの成長や食べたものについて記録してほしいと言われ、マックスはそれを承諾する。然しベラは見目こそうつくしい成人女性であるけれど挙動は幼児のそれであった。初対面でマックスを殴り、血! と嬉しそうに笑う。長い手と足がぶらぶらと揺れ、おぼつかない足取りで屋敷を歩く。脳みその想定する胴体や手足の長さでないのだ、と思わされる挙動で生活をしている。(ところで屋敷には鶏の体に犬の頭がひっつけられたペットのようなものが数匹歩いており、見た目が普通に気持ち悪くてまるで悪夢であるかのようだった。そして誰もそこに突っ込もうとしないので、え……!? となる。観客だけがおかしいのか……!? マックス! せめてお前は何か言え!)
とにかくこのベラの演技が終始すごかった。流石エマストーン……! と思わされた。これは素人の憶測にすぎないが、演技の道で生きている人というのは、自分が何か演じるとした時に何かしら模範となる対象を参考に演技のただしさというか、精巧さを求めるものだろうけれども、今回のベラのように胎児の脳を丸ごと移植された女性など、その……前例がないだろうに観客にも十分説得力を持たせる演技を見せてくるので、それがとにかく、すごかったのだ。エマストーン、一体どこまでやれるんだ……? というもはや恐怖に近い期待! 目も当てられないよような幼児らしい挙動、皿を割り癇癪を起こす、痛々しささえ覚えるベラの様は圧巻だった。そしてこう感じてしまうのは、わたしが体も脳みそも共に成長した年齢にふさわしいものを持っているからだとわかる。ゆえにこそ、体が大人で脳みそは胎児であるベラがわたしたちの目に非常に異質な存在として映る。
マックスはベラを観察し、髪の伸び方や色の好みなど、それらを記録に残してゴッドに提出する。また明日も頼むと言われ、再びベラの記録を取る。ゴッドは外に出たいと腕を振り上げるベラに、外には危険が多いからと嘘を織り交ぜてまで彼女を閉じ込め続ける。そんな日々が続く。そしてある日、ベラは何かに気づいたようにテーブルの食べ物を自分の股に添えるのだ。自慰について識った彼女は、幸せになれる方法がわかったと言ってメイドやマックスにそれを教えようとする。──人間の成長の段階において「性」とは明確にそれ以前とそれ以降を分けるものなんだなと解らされるシーンだった。体が成人女性で知性が幼児並みであるからこそ、性の快感にのめりこんでゆく彼女の姿はこの上なくグロテスクだ。ゴッドでもマックスでもいいから正しい性教育をしてくれよ、お前たち医者なんだろ……と祈るように見守っていたがそんなシーンが挟まれることはなかった。性に興味を示しそれに夢中になるばかりのベラは拙いキスをし、耳を舐め、マックスに迫る。幼児がするなら微笑ましくとも、ベラの体は女性だ。ハラハラさせられた。救いだったのは、マックスがけして流れのままに彼女に手を出すことはしなかったくらいだ。
然し、マックスとベラが婚約の契約を結んでからダンカンという弁護士の男が現れて、ベラの運命は大きく変わる。ダンカンは見るからにベラを性的に搾取しようと目論んでいるおとこだった。ゴッドの屋敷に訪れた彼はベラを見つけると初対面で彼女の股を触り、挙句の果てには自慰をしているベラの部屋の窓にまで登ってくる、その気色の悪い執着の度合いといったら……。その、どうしようもなく既視感のあるその温度感というか空気というか、それには鳥肌が立ったくらいだった。
けれど、彼に「冒険」を持ちかけられて屋敷を出たがっていた彼女はゴッドとマックスの制止を振り払い彼について行くことを決意する。(この頃のベラは、未だ言動や挙動が幼児のそれであっても、癇癪を起こした自分を気絶させるためにゴッドが使っていたクロロホルムを染み込ませた布を他者にも使う=それが有効であることを知っている姿を見せるので、驚かされた。著しい成長である。)屋敷を出たベラが世界を感じた時、そこでやっと、画面はモノクロからフルカラーに変わる。ベラの世界は広がり、色あざやかなものになるのだ。「哀れなるものたち」で生きる人間たちの世界は、過度に色彩豊かなものとして描かれる。空も花も海も彩度が高く、狂気さえ覚えるほどとても幻想的な様に、ベラが捉えているからこそこの色で構成されているのだろうと思わされる。
果たしてここから続くベラにとってのダンカンとの冒険は、彼とのセックスと未知なる世界への探求心を経て自分自身の感情や感情の理解に向き合い、他者と意見を擦り合わせることで自らの考えや意思を確かめてゆく、自由への旅そのものだった。
ベラはダンカンに連れられ、マックスに教わった都市であるポーランドのリスボンに最初降り立つ。うつくしい造りの建物に美味しいタルト。ベラにとっては何もかもが新鮮で、彼女は常に上を見上げながら街を歩く。ホテルに戻れば、ベラはダンカンに「熱烈ジャンプ」をしたいとセックスを強請って、また、日々新しいことを発見する。暴力、菓子、人間関係──細い道の先でのカップルの喧嘩、聴いたことのない楽器の演奏、ダンカンの友人との会話……。このころのベラは見ていてまだ危うい場面が多々あるので、冷や冷やしながら観ることとなる。それでも、世界にふれてゆくベラは愛らしい。彼女のおさなさを象徴するかのように、廻りの女性は裾の長いドレスを着ているにもかかわらず彼女だけが、膝よりも上の丈のショートパンツに、袖が膨らんだドレスを着ている。
セックスと未知の発見と世界の鮮やかさを知りつつ、リスボンを離れたベラとダンカンの二人は大きな大きな客船に乗り、大海を渡りながら次の国へと移動することとなる。そこで出会う新たな人物のふたり・マーサとハリーは、様々な考えや価値観でベラに人生の選択肢を“自分の力で”思考させてくれる言葉を与えてくれる。このあたりで、ベラはダンカンと意見が一致せずぶつかり合うようになったりするのだが、その過程がまた面白い。だんだんと歩き方が変わってゆくベラは変わらずセックスが好きだがそれだけでない。世界に興味を持ち、知識をつけたがり、本を読むようになる。自分の考えや意見を話し、なぜなのか? と疑問を持つ。ダンカンは思うようにいかなくなり大人びてゆくベラに「お前の可愛い喋り方が失われていく」と苛立ち、カジノに手を出してありふれた破滅に見舞われる。……このシーンにおける決定的な転機は、ハリーに連れられて停泊したアレクサンドラにてベラが瀕死のこどもの山を見てからだ。ベラは明確な自分の意志で「こんなことがあってはならない」「何か行動を起こさなければいけない」と考え、行動し、たまたまカジノで勝ったダンカンの金をすべて持ち出し船員に「このお金をあの子供たちに渡してほしい」と懇願する。ベラの祈りもよそに、その善意は報われることなく船員の懐に札束が消えていく羽目になるのだが、そのくだりさえ人生のままならなさを象徴しているようで鮮烈だった。そう上手くはいかないのだ。救済は思うように願った場所へ届かないことの方がずっと多い。
一文無しになってしまったベラとダンカンは冬のパリに容赦なくおろされる。はたしてこれからどうするのか、……ベラはそこで、ダンカン以外の男とセックスをすればお金が稼げることを知ることとなる。うつくしく静謐──というよりかは、青銅を想起させる街並みの冷ややかさが印象的──な世界でベラはダンカンに別れを告げ、ひとりで生きてゆこうと新たな道を踏み出すのだ。このころのベラは既に足取りが見目相応にしっかりしており、また、服装も彼女の精神の成長に伴いシックでエレガンスなものになっている。
娼館で働くさなか、ベラは自らの体で金と知識を蓄えて自立してゆく。その様はただうつくしいだけでなく、彼女が明確な考えをと意思を以て行動していることがわかり、今までの彼女を見てきた身としてはなんだか感慨深くなるものだった。パリの街並みも相まって、ベラは研ぎ澄まされた銀のやいばのように、賢く、思慮深く、知的好奇心にあふれた大人の女性に成ってゆく。
ベラの転機はここでもふたたび訪れる。ひとつめは、同僚に指摘された自分の腹にある帝王切開の傷に関する謎で、もうひとつめはゴッドが倒れたという家からの知らせだ。そこでようやく、ベラは店でできた親友を置いて一度パリから元の家へ戻る決心をする。長旅からの帰還だ。
家に戻ったベラは、出発時とはことなる視点で自分がかつて閉じ込められていた檻を見ることとなる。自分の次に迎え入れられた──自分と同じく、脳を植わられた──少女を横目に、ゴッドの元へゆく。そして彼女は問うのだ。自分自身のことについて。
意外だったのは、手術の訳を知り自らの境遇を脚色なく教えられようともゴッドを問い詰める彼女の声や目には明確な怒りがなかったことだった。このあたりは徹底されている。ベラは自分を育ててくれたゴッドに感謝をしているし、ゴッドを心の底から慕っている。騙して家に閉じ込めていたことを言及したり、糾弾したりはしない。ややひずんだ愛のかたちだったけれども、わたしには好ましく映った。こういう、他者には顔を顰められそうでも当事者間ではまぎれもないいびつな愛情というものが大好きなので……。
マックスは旅に出ていた間のベラの話を聞いても、彼女を突き放そうとすることはなかった。受け入れると言って、ベラと結婚することとなる。ベラもプロポーズを承諾し、彼らはちいさな教会で3人だけの結婚式を挙げる。──いいクライマックスだったな、と思いかけたところで、物語にはまだ続きが在った。そう、ベラがまだベラでなかったころ、……腹に赤子を抱えたまま身投げした女性であった時の元旦那が、ベラに恨みを持つダンカンとともに式場に乗り込んでくるのだ。
あ~~確かにそこを解決しなきゃいけないよな……と伏線に気づかされながら、ベラがあれよあれよと結婚式を中断してゴッドとマックスの言葉も聞かずに元夫について行ってしまう様を眺めた。ベラは単純に、やはりいつも、知りたいだけなのだ。知的好奇心が、彼女を突き動かすのである。
果たして自殺をする前、赤子の脳を移植される前の自分がどんな人間であったか。彼女は堅牢な城に足を踏みいれて知ることとなる。ゴッドやマックスの居た家と違い、寒々しく孤独な城では銃で使用人を脅す夫の暴虐が権力を発揮していた。誰も彼も、おびえながら、夫の逆鱗にふれないよう身を縮めて過ごしている。使用人らはベラが話しかけようと、返答もしてくれない。そして部屋に残された自分の日記を見て、ベラはこの世界からいなくなってしまいたかったかつての自分を追想する。
ある日ベラは恐ろしい話を廊下で聞く。妻が自殺なんてしようと考えたのはクリトリスのせいだと夫は考えており、それを今日中に切断してやる……などと医者と話していたのだ。一体どんな飛躍でどんな思考回路をしていたらそんな考えになるんだよと突っ込みたくなるけれども、女性側が常に弱者的立ち位置を強いられる社会の縮図であるようにも思わされてわたしは眉をしかめた。而してベラは、鉄格子によって閉ざされた城からの脱出を決意する。窓から飛び降りることは不可能で、どうしようもなくなり最終的には夫に直談判をしに行く。けれどもやはり、聞く耳を持たず銃で脅そうと睡眠薬を手に近づいてくる夫に面と向かってこう言い放つのだ。「わたしはクリトリスを持ったまま生きていくしこの城からも出ていく。」──そして、飲めと渡された薬を夫の目にぶっかけ、落ちた銃をベラは拾って撃つ。脚から血を流す夫を前に、ベラはひとり、城を駆ける。
脱出後のベラを待っていたのは、偉大なるゴッドの死だった。ゴッドに寄り添い、ベラは彼に感謝を告げて見送る。ゴッドのやったことが咎められるべき業であるかどうか判断をするのはすこしむつかしい。ただ、厄介な体になってなお、彼はベラというある意味での「最高傑作」に見守られて安らかに死んでいった。
──最後は、みなが庭に居るシーンで締めくくられる。結婚をして夫婦になったベラとマックス、パリでベラと仲の良かった親友、ベラと同じく胎児の脳を移植され成長途中の女性と、……おそらく、アヒルか何かの脳みそをベラと同じ技術で以て移植された元夫が草をむさぼるシーンで終わりを迎える。ベラはゴッドと同じく脳外科医を目指し、試験に受かるかどうか不安だと苦笑する。きっと受かるさ、とマックスがわらう。……頭を付け替えられた鶏と犬が歩く綺麗な庭で、みなが笑みを湛える。その風景の、言い表せないこの、独特な幸福の在り方に唖然としてしまう。「哀れなるものたち」のタイトルが、一番似合う絵は間違いなくこの庭だった。
──女性という性別でいる限り、考え続けなくてはならない、と深く思わされた映画だった。男性や上の立場の人間から搾取され、虐げられ、傷つけられてきた歴史がある中でも、わたしたちは考えることをやめてはいけないのだ。考え、知識をつけ、自分一人で歩くことのできる力をつけなくてはいけない。自分という人間を確立し、揺らがぬ目で世界を見定めなければいけない。自由を求めて闊歩しなければならない。女性に観てもらいたいのはもちろんだけれども、できれば、18歳以上の人間みなに観てもらいたい映画だった。間違いなく人生ベストだった。映画の内容そのものもそうだが、美術的な面でも見ていて面白い映画だった。出会えてよかった。ほんとうに。