2024年映画鑑賞録 24、25『aftersun』『林檎とポラロイド』

a_waltz_at3pm
·
公開:2024/5/24

aftersun/アフターサン

監督 シャーロット・ウェルズ

Amazonプライムで字幕版を観賞。102分。

あらすじ: 母と離婚し離れ離れになった父と、トルコのリゾート地で2人だけの夏休みを過ごす少女。彼女は、悩みを抱えながらも陽気に振る舞う若い父親と、かけがえのないひと時を過ごす。

前々からSNSで絶賛されていて気になったので観賞。ひと通り観終えたとき、後半ずっと不穏だったしずっと何かが引っかかるような言い表せない不安感のある映画だったなと思いつつ、内容を捉えきれていない感じがしたので解説や考察を見たところ、納得。嗚呼、なんてさみしい映画なのだろうと思った。

わたしは基本的に考察前提の映画がそんなに好きじゃない。散りばめられたシーンに付与された意味、暗喩、それらの訳を考察出来なかったり意図を読み取れない観客はこの映画を楽しむに値しないのか? ん? と思ってしまうからだ。(喧嘩腰過ぎる……。) 

というか、そもそもわたしが考察それ自体を上手くできない人間だからそういう雰囲気の映画が苦手、というのもある。映画を観ながら、これってこうなのかな? でもそれって深読みしすぎているのかも……とか考えながら観るのは大変だし、こうなのかもしれない、と見当をつけて観ていたら全然違う話の展開になって、じゃあ今までこういう風に理解していたけどそうではなかったということ……!? と頭がこんがらがるためである。映される画面から与えられる情報を100%で受け取りたい。

とはいえ、ストーリーの全容を把握できず単純に観ても「aftera sun」は良い映画だった。なんというか、終始空気感と会話がいい。トルコの景色も美しい。やや褪せていて、しめりけがあって、潮臭くて、気だるくて、なんとなく人と人の距離が近い。会話とテンポと、親子ふたりの距離感を適切に映すカメラのアングルもいい。

この映画は一見なんでもない親子のビデオを流しているだけであるように思えるけれども、拭いきれない悲しさがずっと漂っている。父・カラムと娘・ソフィが楽しそうにリゾートで過ごしているはずなのに、どうしてこんなに寂寥感が漂っているのだろうと思いながら眺めて、それから、解説を読んでやっと納得した。なるほど、父と過ごす≪最後≫の夏であるがゆえだ。だからこんなにもずっと、夏の映画であるはずなのに薄暗い。「ソフィ 愛してるよ 忘れないで パパより」のメッセージが喉の奥に苦みをくれる。

それを理解してしまうと、一気にこの物語はわかりやすくなる。二度目の観賞が推奨されているのと、評価が真っ二つに割れているのはこのためだろう。空港での別れを経たのちのカラムが一体どのような道を辿ってしまったのかが分かってしまうと、映画の中の台詞や些細な会話が全部伏線に成る。「after sun」はそういう映画なのだ。31歳のソフィが振り返ることのできるかつての夏の物語であって、それこそ、熱で傷ついた肌をaftersunでケアするようなものなのだ。あのころの父と同年齢になったからこそ理解できるようになった父の言葉を追想しながら、救えなかった父を辿る話なのだ。むずかしい映画だな~! 不思議な映像だったな~! でも、痛くてさみしい雰囲気が個人的に大好きだったので、わたしの中では観てよかった映画に入った。観ているあいだ、かつて自分の父と和歌山の海や川で遊んだ記憶が思い出され、わたしもいつかこうして父を追想する瞬間があるのだろうと考えながら観ていた。この映画はしばらく経ってから二回目を観賞するつもりだ。

林檎とポラロイド

監督 クリストス・ニク

Amazonプライムで字幕版を観賞。90分。

あらすじ: 突然の記憶喪失を引き起こす世界的なパンデミックが発生。アリスは新しい自分を構築できるように設計された回復プログラムに参加する。

これも「aftersun」同様にやや考察のいる映画だった。ただ、「aftersun」よりはずっとわかりやすい。なにより、題材がいい。世界観と設定が百点満点だ。この世界観で二次創作をしてみたい。

こちらも、映像の中は常にやや物悲しい雰囲気の漂う映画だった。冷ややかで無機質で、すっきりとしている。ただ、どこかシュールな空気(木に激突する車、ポールダンサーにじっとしてくれと頼んでツーショットのポラロイドを撮る、子供の自転車を借りてひっくり返る、など)もあって、くすっと笑えるシーンもたくさんある。そのバランスが絶妙でよかった。

果たして淡々と進んでゆくように思えて、物語の終盤にはきっちり感情を混ぜ込んでくる映画だったので、あ~構成がうまいな、と感心させられた。観客の情緒を引き摺る仕掛けだ。この緩急があるからこそ、終盤の伏線回収や展開がより胸にこみ上げてくるものになる。余命僅かな病人の介護をし、葬式に参加した主人公の目もとが潤んでいるシーンを映し出されてやっと、観客はその時初めて主人公の人間らしい表情を垣間見る。彼が記憶を失くしているわけじゃない、というのを知る。知らないおばあさんのお葬式なんてつまらない、と同じプログラムに参加していた女性の声が鼓膜によみがえり、嗚呼彼は、と思わされる。

最後のシーンでは映画の最初から終わりまでを振り返って、いずれ誰だって抱えるだろう喪失とその耐久強度について想いを馳せることになってしまった。どれだけの喪失にどのくらい耐えられるかは人それぞれなのだが、そのまま先を生きてゆくに足る強さはどこで見つければいいのだろう。乗り越えるべき坂がそもそも見当たらない人間はどう歩いて行けばいいのだろう。いっそこの哀しみを忘れられたなら、という祈りと、この哀しみごと忘れてしまったなら、という恐れは心に同時に存在し得るわけで、そのままならなさといったら……と考える。

今作の主人公は、おそらく記憶喪失になったふりをして〝新しい自分プロジェクト〟に参加し、課題を順番に適切に、それでいてとてもまじめにこなしていくわけで、けれどそれでも、結局亡くした妻と死の哀しみからは逃れられないで、妻のことを忘れられないでいることを自覚しながら自分の家へと帰ってゆく。いつかは自分も記憶喪失を起こす病に罹ってしまうかもしれない、けれどそうでない今は足取りを確かに、哀しみとまた向き合う日常に戻る。オレンジではなく、記憶力の低下を防ぐ林檎を齧って。

最期で伏線回収されるタイプの作品だったので、これももう一度観返したい映画だ。もう一回観たい映画、一体何個あるんだ……。

@a_waltz_at3pm
自我の置き場(1週間日記・本と映画感想記録)