創作作業というものはつまり、己の性壁をさらけ出すことである。
何をエロいと思っているのか?何にときめくのか?それと向かい合い解像度を高めなければ良いものは作れない。得てして、異性にモテてぇ〜というぼんやり欲望だけでは筆を取るに至らない。
どんな異性だ、どんなシチュエーションで、どんな気持ちで、そんなことを突き詰めていたらそのうちに、イラストレーションでも漫画でも、小説でも、何かがきっと出来上がっている。そのような童貞めいた妄想こそが筆を走らせる根源だ。
が、この世には『異性にモテてぇ〜』とか『異性のえっちなとこ見てぇ〜』という肉欲的な性癖では、及ばないものがある。肉欲は素晴らしい。素晴らしくわかりやすい。もはやBLもリョナも肉欲だといえる。そこには異性の恋や性行為の代わりに何らかの理由で悶える美少女・イケメンがいる。須くそれは肉欲的だ。
だから理解されやすい。美形を痛めつけて苦しめたいというサドめいた欲望でさえ、DLsiteを開けばいっぱい同類で溢れている。恋愛脳だのと一般ピープルを嘲笑っても、オタクもまた肉欲からは逃れられない。ニディガだってエンディングの半分は、性欲が絡むようなものだ。
そうだったら楽なのに。理解されやすいのに。仲間もいっぱい出来たろうに。
でもわたしがいちばん萌えるのは、異性に愛されることでも痛めつけることでもなく、同性でもなく、異形ですらなく
文化の流転だ。
ずっと昔に謳われた漢詩が、日本で漢字やかなになり、明治時代に小説に引用され、現代で歌の歌詞になるような。
叛逆だったロックンロールが巨大産業となってステージ型のショーとなり、それに叛逆するためパンクが生まれ、散り、オルタナティブ・ロックが生まれ、死に、けれどそれは確実にショーになったロックを変質させていったこととか
戦争のための衣服だった軍服用外套がライダースジャケットやモッズコートになったこととか
戦後の新しい世代のための新しい日本を目指したのに最終的な総括は旧日本軍の再生産となっていく学生運動赤軍とか
建築様式だったゴシックがやがて文化の呼称となっていくこととか
ともかく、そういう事に言いようのないときめきを感じるのだった。
けれど、そんなタグはDLsiteになく、またジャンルとしてもなんて一言でいえば良いのかすら分からない。
このような文化の話題には無反応なのに、ごくたまに口にするえちえちな男リョナの話題には飛びつく人を見ると、一抹の寂しささえ感じる。肉欲的なものにいちばんのときめきを感じていたら、こんないとも容易く同胞は見つかり距離は縮まるはずなのか。けれど実際は、本当にわたしが好きなことには興味はないのだ。
このような、肉欲的でない、対象が人間そのものでないものへの愛を昇華するには自分で作るしかない。わたしの場合はそれこそがインディーゲームだった。
なんというかゲームは、こんな言葉にすらならないものを受け入れてくれる土俵がある。それは、ゲームの面白さもまた、言葉にならないものだからだろう。