古峰原が良いらしい。
夏になり、低山は咽せるような夏の気配でちょっと登るのが辛くなってきた。蟲たちの楽園に人がふらっと立ち入ればたかられる。割と虫は好きな方だが肌に乗せたい趣味はない。
その上、これから酷暑がやってくる。そろそろ標高を上げたい。標高が上がれば気候も寒冷になり、涼しく、虫の数も減るだろう。だが高い標高は人体にも悪影響、天気も変わりやすく、初心者のうちにわけ入っては色々と危険だ。
そこで古峰原である。標高1000mを超えるが車道が通っていて高い位置からハイキングを始められる。車道沿いのハイキングコースは人道も近くて安全そうだ。標高600m地点には大きな神社、古峯神社があり駐車できないこともなさそうだった。
そんなわけで意気揚々とやってきました古峯神社。お詣りは降りた後にしてさっそく登っていこう。
今回は様子見ということで三角点がある三枚岩までは行かず、古峯神社から古峰原まで歩いて登り、古峰原の駐車場事情を視察しようという魂胆。古峰原峠から徒歩15分の『深山巴の宿』を見て帰路に着く計画であった。
さて、ハイキングコースの入り口までは古峰神社駐車場からざっと1時間ほど歩かなければならない。車道とはいえ勾配はあり、なかなかの運動になる。
運動になるというか……普通に辛いな……
午前中の古峰原の車道は自転車競技の良い練習場であるようで、えっさほっさと登っていくわたしの脇を、ロードレーサーたちが駆け上って行った。ヒルクライムのアタックである。はあ、徒歩でこんなに辛いのに、車輪を回す彼らの心肺はどんだけ太いのだろうか……
しかし楽勝と言うわけではない。先行く彼らの顔は誰もが苦悶の表情で、苦しみ抜きながら峠を登っているのだった。
わたしたち、せっかくの休みに苦しみに来てんだよなぁ、いったいなんでこんな勾配をわざわざ自分の脚で登っているのか。
憧れがあるんだよなぁ、わたしは男体山に白根山、そして長野のアルプス……
彼らはロードレースの大会……
憧れのためなら休みの日にわざわざ苦しむのも悪くないよなぁ。
そんな風に思っていると着きましたハイキングコース。車道のガードレールの裂け目からそっと沢に入り、木の階段を登っていく。ろくに整備されてなくて土は流れて木の枠組みは腐っている。鉄砲水の影響だと思われた。
ハイキングコースの序盤は沢を登っていくような道で常に水の近くにあった。
途中で『へつり地蔵』という名所が出てきた。眺めながら一本満足バーを食う。看板曰く、江戸の世に深山巴の宿での修行に耐えかねた修験道者が逃げ出したが、仲間に囚われてここで殺され、哀れに思った地元民が地蔵を立てたそうである。
雪の日に……へつり、つっぱった不安定な岩場に血の花が咲く……
晴れた日なのにハイキングコースはわたしひとりだった。なんだか不気味になってそこを後にした。
沢から離れて足場の悪い山道を行く。なかなかの勾配で、標高はまだ1000mにはいかない。咽せるような夏の気配がした。夏から逃れたくて1000m超える場所にしたのに今回登る箇所は結局標高は至らないのだから意味なかったなァ……
なんて思いながら登りつめると急に車道に出た。
そこは標高1000mの古峰原峠だった。
気持ちが良い風が吹く。明らかに1000m以下の時とは違う。夏の気配で蒸れた身体が荒涼な風で癒されるようだ。
東屋でひと休みして『深山巴の宿』へ。
ここは日光開祖である勝道上人が男体山開山前に修行したと言う神域で、上人が去った後も修験道の修行の場となっていた。それは明治のよになって神仏離合が言い渡されるまで続いたと言うのだからおおよそ1000年続いたのだった。
京極堂『鵼の碑』を読み、日光の山登りたいな〜って思って登山を始めたので、日光開祖の勝道上人の伝説がある場所は常々巡りたかったので感無量!というか今も古峯神社の祀事場だそうで、想像以上に清浄な雰囲気のまま保たれていた。
じゃ、帰るか。
駐車場は狭くなかったし、次回は古峰原峠まで車で来て三角点まで行こう。
次回の山行を思いつつ帰りは疲れたので全部車道を通っていくことにした。つまらない道だが迷うこともないし、ちょいちょいバイクや車が通行しているので何かあっても人に見つけてもらえるし、往来がある道なら動物が……熊が出ることもないだろう、交通事故にだけ気をつけて歩行すれば1番安全だと……とめいっぱい切った安牌だったのだが……
野生は人間のそんな安牌など知らないのである。
降り始めて1時間弱、ふと物音がして反対車線にそそり立つ、山間の壁を見上げればそこには熊がいた。
真っ黒いけむくじゃらの、愛嬌さえある尻が、壁と山の間を器用に渡って歩いている。顔は見えなかった。動画なら、可愛いとさえ思えるそれは実物を目にした今はただ「でかい」としか思わなかった。
でかーーーい!!!
説明不要!!!!!!
ツキノワグマのはず。体長は大きくても1.5mでヒグマの2mと比べたら小柄だ。だからなんだ、わたしの身長は156cmだ、わたしと同じぐらいの体長で、手脚を入れたら超えてしまうだろう。でかい、デカいぞ、あんなのが
こちらを見て、壁を駆け降りてきたら……
見晴らしのいい車道である。身を隠すところはどこにもなかった。
熊は壁伝いにわたしと同じ進行方向をとっていた。奴の視界にわたしはまだ入っていない。
わたしは踵を返して車道を登り返し、カーブを曲がり身を潜めた。
山で動物に出会ったら……動画や写真を撮りたいな🎵
なんて思っていたが冗談ではない。あんなデカいのはかわいい動物ではない。『進撃の巨人』でウォール・マリアを超大型巨人に覗かれたときの人類の気持ちってこうだったのかな。
人類は思い出した……あんなデカいのに勝てるわけねえってことを……
しゃがみ込んでいると、意気揚々とバイクが一台走り去っていった。様子を見たが特になにも起こらない。恐る恐る車道を降っていくと、もう熊の姿はなかった。
車道で良かった…………
こんな午後の車道に姿を見せるなんて……
這々の体で車道を降っていくと、何か硬いものを踏んですっ転んだ。久しぶりに擦りむく膝小僧。
なんだ?と踏んだものを見ると動物の頭蓋骨であった。
無事に古峯神社まで戻ってきてお詣りを果たした。
神様……山はやっぱりヤバいですねぇ、人間の理なんて何にも通じない、野生の世界と修験道の古い信仰が混じり合って今だに存在しているんですねぇ。
わたしはそんな世界ではちっぽけで何にも配慮なんてされなくて、ただ、あの熊が気まぐれにふり向いて、去っていくわたしの背中に興味を持ったらそれでもう怪我は免れなかった。山中では人の肉体を害するものがたくさんあるんですねぇ……
でも、まだわたし、山を登りたいな……
午前中に見たロードレーサーたちのように研鑽を詰めばもっと安全に登れるだろうか。AppleWatchSEのアップデートされたOSは心肺機能を判定し、人より弱いと告げていた。
まずは心肺機能を上げないとなぁ……この山域は誰も配慮などしないのだから、強くあらねばダメなのだ。
わたしはランニングシューズを買った。