『邪魅の雫』発行時の西尾維新について考えると小説になる

achamoth
·

京極堂『邪魅の雫』を読み終えたので感想を漁ってみたところ、作中の登場人物『大西新造』は作家の西尾維新がモデルというものが引っ掛かった。いわく、邪魅の雫は当時流行っていたセカイ系を押し付けてくる編集、太田克史への腹いせに彼自身と彼が推していた西尾を厭な役回りの登場人物に仕立てて、ついでにセカイ系を揶揄するような感じのお話にして出したという。

ゴシップである。どこまで本当か知れない。しかし京極夏彦はパロディもスターシステムも好きだし全然そういうことはやりそうである。

わたしは西尾維新も好きで学生時代によく読んでいた。だから分かる、西尾維新は強烈に京極夏彦の作品が好きだと。

もう、めっちゃ影響受けてる。読めばわかる。インタビュワーに好きな作家は?と聞かれて西尾は京極夏彦の名前も出していたから言質も取れてる。

わたしは想像した。どうなんだろう……当てつけのように……大好きな作家の……作品に出たら。しかも京極堂の本編。ほかの何でもない、京極堂本編のキャラクターになったら。どんな気持ちになるんだろう?

やはり、畏しいだろうか。そんな大御所に怒りの矛先を向けられたら。その上好きなのに、当てつけみたいなことされたら悲しいだろうか。

それとも、嬉しいだろうか。囁かれている理由はどうあれ、京極堂の登場人物になれるのならすべてを差し置いても嬉しくて嬉しくて仕方がない、ということもありえる。

そのどちらも違う気がする。なんだろう……きっと西尾維新は……

愉悦の表情を浮かべたに違いない。自分に影響を与えた作家に、今度は自分が影響を与えたのだ。なんという恍惚、最高の栄誉だろうか。そして、何より京極堂という京極夏彦にとって一番大切な作品の紙上で、西尾自身の作風へのアンサーが来たのである。こんな嬉しく愉快なことがあるだろうか。その瞬間、京極夏彦と西尾維新の関係は、作家と読者から作家同士になった。いいや、京極も作家同士だと思っていたからこそそんなことをしたに違いない。

西尾維新は作家なのだ。だからきっと、恐れることもただはしゃぐこともなく、静かに笑ったのだ……きっと、そうだ……

そしてそれにまた、返事をするなら作品で。もしかしたら何かに、京極への返事が紛れているのかもしれない。いいや、全ての作品は過去、自身が好きだった何かへの手紙だ。

西尾維新には、その返事が来たのだ。

ちなみに、文庫版邪魅の雫の解説は西尾維新が書いている。

それは……こう……仲直り的な……そういう感じ?